資料集
実測データから作成した歴史地図とビジュアル年表。
各号で使った図をここに蓄積していきます。
対照年表 — 三万年前から農耕のはじまりまでDay 001
神津島への渡海(約3万年前)・港川人(約2万年前)・列島の土器(約1万6000年前)と、西アジアの農耕開始(約9000年前)を同じ時間軸で。麦の栽培が始まったころ、列島はすでに土器の時代だった。
西アジア — 農耕と牧畜が始まった弧状の地帯Day 001
農耕と牧畜が最初に始まったとされる弧状の地域(範囲は模式)と、初期農耕遺跡B・C。河川の流路は模式、海岸線は実測データ(簡略化)。
黒曜石の道 — 外洋を渡った石Day 001
伊豆諸島の島Aで産出した黒曜石は、本州の後期旧石器時代の遺跡から出土する。丸木舟で外洋を渡る航海術の証拠。▲は本州側の原産地・和田峠(参考)。
対照年表 — メソポタミアの王朝の興亡と縄文Day 002
シュメールの都市国家からバビロン第1王朝までの興亡と、列島の縄文中期〜晩期を同じ時間軸で。ハンムラビ法典が刻まれたころ、三内丸山の集落はすでに絶えて四百年あまりが過ぎていた。
メソポタミア — 二つの大河にはさまれた地域Day 002
A・Bは設問で問う都市。ユーフラテス川とティグリス川の流路は模式、海岸線は実測データ(簡略化)。開けた平野は守るのが難しく、民族の興亡がくり返された。
縄文の集落 — 東と西の代表的な遺跡Day 002
A・Bは設問で問う縄文時代の遺跡。海岸線は実測データ(簡略化)で、縄文海進の当時の汀線とは異なる。
縄文のアスファルト — 産地と運ばれた先Day 002
天然アスファルトの産地帯は秋田・新潟など日本海側の油田地帯(A)。北海道は産地ではなく、成分分析で秋田産と判明した出土例がある消費地。矢印は運ばれた先の例(模式)。
対照年表 — エジプトの王国の交替と縄文Day 003
古王国・中王国・新王国の交替と「海の民」の来襲、そして列島の縄文後期・晩期を同じ時間軸で。海の民が東地中海を揺らしたころ、列島は縄文晩期に入っていた。
ナイル流域 — 下流と上流の二つの都Day 003
A・Bは設問で問う都市。ナイルの流路は模式、海岸線は実測データ(簡略化)。下流(デルタ寄り)と上流(谷の奥)という位置の違いが、王国の時代ごとの都の選び方に対応する。
縄文の貝塚 — 東京湾岸の大貝塚Day 003
Aは設問で問う遺跡。貝塚は捨て場であると同時に、貝殻のカルシウムが土を中和して骨が残るため、当時の暮らしを読み取れる記録層でもある。
対照年表 — 東地中海の諸民族と、縄文晩期から弥生へDay 004
フェニキアの交易・ヘブライ王国とその分裂・バビロン捕囚と、列島の縄文晩期〜弥生の始まりを同じ時間軸で。弥生開始は両説(歴博説 前10世紀/従来説 前5〜4世紀)を移行帯で示している。
東地中海 — 海に開いた都市と、内陸のオアシスDay 004
A・Bは設問で問う都市。耕地に乏しい海岸の民は船で地中海へ、内陸の民は隊商で陸路へ——地形が交易の形を分けた。海岸線は実測データ(簡略化)。
弥生の遺跡 — 伝来期の西と、広がったのちの東Day 004
A・Bは設問で問う遺跡。西は水田稲作が伝わったばかりの姿を、東は各地に広がったのちの村の姿を示す。海岸線は実測データ(簡略化)。
水稲農耕の広がり — 九州北部から東北北部へDay 004
矢印は広がりの向き(模式)。九州北部から数百年のうちに東北地方北部まで達したが、北海道と南西諸島には本格的には及ばず、別の文化が続いた。経路・到達年代には幅がある。
対照年表 — オリエントの統一と四王国、列島の弥生前期〜中期Day 005
アッシリアによるオリエントの統一(前671年)から都の陥落(前612年)までと、列島に金属器が伝わるまでを同じ時間軸で。ニネヴェが焼け落ちてから二百五十年あまりのちに、列島へ青銅と鉄が渡ってくる。列島側の点は歴博説の実年代による位置で、従来説では二百年ほど下る。
オリエント — 大河のほとりの都と、金の川のほとりの都Day 005
A・Bは設問で問う都市。東はティグリス川東岸の帝国の都、西は小アジアの内陸盆地にあり、かたわらを流れる川の砂金で知られた王国の都。二大河の流路は模式、海岸線は実測データ(簡略化)。
弥生の青銅祭器 — 三つに分かれた祈りの圏Day 005
ア・イ・ウは祭りに用いられた銅製品の分布圏(模式)。近畿を中心とする圏、瀬戸内中部(伊予・讃岐)の圏、玄界灘に面した圏の三つに分かれる。同じ祭器を使う範囲が、そのまま地域のまとまりを示したとみられる。境界は確定的ではなく、重なりあう地域がある。
出雲 — 銅剣358本が眠っていた谷Day 005
Aは設問で問う遺跡。丘陵の斜面に掘られた埋納坑から、それまで全国で出土した総数を一か所で上回る数の銅剣が見つかった。数キロ離れた地点でも銅鐸39個が一括して出土している。海岸線は実測データ(簡略化)。
対照年表 — アケメネス朝の興亡と、列島の弥生中期〜後期Day 006
キュロス2世の建国(前550年)からダレイオス3世の敗死(前330年)までと、列島の弥生中期〜後期を同じ時間軸で。アケメネス朝が滅んだころ、列島は弥生中期のはじめ(歴博説)にあたる。列島側の実年代は開始年代の説によって動く。
オリエント — 幹線道路がつないだ都Day 006
Aは設問で問う都。小アジアの西端から帝国の中心部まで、宿駅を置いた幹線道路が結んでいた(線は模式)。海岸線は実測データ(簡略化)。
弥生の集落 — 濠をめぐらせた村Day 006
A・Bは設問で問う遺跡。周囲に濠をめぐらせた村と、平野を見おろす丘の上の村。争いの跡と防御の構えが同じ時期に現れる。海岸線は実測データ(簡略化)。
弥生の墓制 — 二つの分布圏Day 006
ア・イは墳丘墓の形式の分布圏(模式)。山陰から日本海沿いに北陸へ延びる圏と、近畿から東日本へ広がる圏に分かれる。境界は確定的ではなく、外側にも例がある。
対照年表 — インダスの都市と、中国へ使いを送った小国Day 007
インダス文明の盛期(前2600年頃〜前1800年頃)と、列島の小国が中国の王朝へ使いを送った1〜3世紀を同じ時間軸で。列島が使いを送るころ、インダスの都市は放棄されてから千八百年あまりが過ぎていた。
インダス川の水系 — 二つの計画都市Day 007
A・Bは設問で問う都市。インダス川の本流と支流の流路は模式、海岸線は実測データ(簡略化)。上流の支流ぞいと下流の本流ぞいという位置の違いが、都市の性格の違いにも対応する。
倭から大陸へ — 海を渡る経路Day 007
Aは設問で問う遺跡。経路は史書の行程記事にもとづく模式で、実際の航路を示すものではない。海岸線は実測データ(簡略化)。
対照年表 — ヴェーダの時代と、古墳の広がりDay 008
アーリヤ人の進入からガンジス川流域への進出までと、列島に前方後円墳が現れて各地へ広まる時期を同じ時間軸で。両者はおよそ千二百年離れている。
北西から南アジアへ — 峠と、最初に定住した地方Day 008
A・Bは設問で問う峠と地方。ヒンドゥークシュ・スピーン=ガル・スライマーン・ヒマラヤの各山脈は模式、海岸線は実測データ(簡略化)。山脈の切れ目がそのまま人の通り道になる。
峠のまわりの拡大図 — 山脈のあいだを抜ける川Day 008
北にヒンドゥークシュ山脈、南にスピーン=ガル(サフェード=コー)山脈があり、そのあいだをカーブル川が抜ける。上の広域図のAの部分を拡大したもの。
5世紀の大型古墳 — 最大の古墳と、近畿の外の巨大古墳Day 008
A・Bは設問で問う古墳。墳丘の長さは約486mと約350mで、近畿の外にもこの規模の古墳が築かれたことが、当時の勢力の分布を示す。海岸線は実測データ(簡略化)。
対照年表 — 北インドの新しい教えと、南朝へ使いを送った倭の王Day 009
前6〜前5世紀の北インドで祭式の権威に異を唱える教えが現れた時期と、4〜5世紀の倭の王が中国の南朝へ使いを送った時期を同じ時間軸で。重なりはなく、およそ九百五十年の隔たりがある。
ガンジス川流域 — 十六大国のうちの二つDay 009
A・Bは設問で問う国。勢力の範囲は模式で、境界は確定的ではない。ガンジス川の流路も模式。都市と商工業が発達したこの流域で、生まれによる序列と祭式の権威に異を唱える教えが広まった。
4〜5世紀の朝鮮半島 — 三つの勢力と、小国の分立した地域Day 009
A・B・Cは設問で問う勢力(範囲は模式・境界は確定的ではない)。新羅はこの号では設問の対象ではないため、凡例でその旨を示している。海岸線は実測データ(簡略化)。
対照年表 — 殷を中心とする中国古代と、氏と姓で豪族を編成した倭Day 010
前16世紀から前11世紀の殷と、6世紀前半の倭を同じ時間軸で。重なりはなく、殷の後期の都が置かれてからおよそ千八百年の隔たりがある。
中国の二つの大河 — 長江下流の稲作遺跡と、殷の後期の王都Day 010
A・Bは設問で問う遺跡。Aは長江の南、Bは黄河の北(洹水の南岸)にあたる。河川の流路は模式で、当時の流路は現在と異なる。海岸線は実測データ(簡略化)。
※海岸線・河川は実測データ(簡略化)。分布圏・経路・時代境界は模式。地図はすべて実座標から生成しています。地図データ: Natural Earth(パブリックドメイン)。