DAY 002
2026年8月16日(日)

石に刻まれた法、貝に埋もれた暮らし

世界史:古代オリエント文明とその周辺 日本史:文化の始まり(旧石器・縄文)

世界史(16問)

単元:古代オリエント文明とその周辺(二つの大河の流域に生まれた都市と統一国家)
1基本
古代ローマ人が「日の昇るところ」を意味する言葉で呼んだことに由来する、エジプトから西アジアにかけての地域の呼称は何か。
解答を見る
解答:オリエント
解説:ローマから見て東方にあたる地域を指す。ナイル川、ティグリス川・ユーフラテス川という大河の流域で早くから灌漑農業が発達し、多くの民族が興亡した。地域名そのものが「東方」という他者からの視線を含んでいる点は、のちのヨーロッパ側から見た東洋観の出発点としても押さえておきたい。
2基本
メソポタミア南部に築かれた都市国家のうち、最古級の都市とされ、絵文字を刻んだ最古の粘土板文書が出土したことで知られるのはどこか。
解答を見る
解答:ウルク
解説:南部にはほかにウル・ラガシュなどの都市国家が並び立ち、たがいに争った。神殿を中心に人が集まり、そこに納められる物を数える必要から文字が生まれた、という順序をここで押さえる。なお、メソポタミアは北部をアッシリア、南部をバビロニアと地方名で呼び分け、のちにその地方名を冠した国家が興る。
3基本
前3000年頃までに、メソポタミア南部に多くの都市国家を築いた、民族系統の明らかでない人々を何というか。
解答を見る
解答:シュメール人
解説:日干しレンガの神殿を中心に都市を営み、青銅器と文字を用いた。彼らの言語はセム語系にもインド=ヨーロッパ語系にも属さない孤立した言語で、系統は現在も不明。 誤答注意:「最初に都市文明を築いたのはセム語系の人々」とする記述は誤り。セム語系の人々が主役になるのは、次の統一国家の段階からである。
4地図
図は二つの大河にはさまれた地域である。Aは前18世紀にこの地域全体を統一した王朝の都、Bは南部の都市国家で、豪華な副葬品をともなう王墓の発掘で知られる。A・Bの都市名をそれぞれ答えよ。
ABユーフラテス川(模式)ティグリス川(模式)ペルシア湾地中海● A・B=設問の都市青線=二つの大河(流路は模式)※海岸線は実測データ(簡略化)。河川の流路は模式
解答を見る
解答:A=バビロン B=ウル
解説:Aはユーフラテス川中流に位置し、のちの時代にも大国の都として繰り返し登場する。Bは河口に近い南部の古い都市で、月神ナンナの信仰の中心地。1920年代のウーリーの発掘で、金製品を大量にともなう墓が見つかった。〈南部の奥、河口寄り=古い都市国家群/南部の北寄り、ユーフラテス中流域=統一王朝の都〉という位置関係で覚える。
5基本
都市国家の支配者が、その都市の守護神に代わって土地と人を治め、神殿の富の管理をにぎることで正当性を得た、メソポタミアの政治のあり方を何というか。
解答を見る
解答:神権政治
解説:王は神殿を管理し、神に代わって土地と人を治めた。神殿に集まる奉納物を記録し、分けて配る必要が、そのまま文字と数の記録を生んだ。王自身が神とされたエジプトの形と、王は神の代理にとどまるこの形との違いは、比較問題でよく問われる。
6基本
粘土板に、葦の茎を斜めに押しつけて記された、メソポタミアで用いられた文字を何というか。
解答を見る
解答:楔形文字くさびがたもじ
解説:はじめは物の形をかたどった絵文字で、神殿の倉に納めた穀物や家畜の数を記録するために生まれた。やがて音を表す記号となり、系統の異なる複数の言語の表記にも使われた。文字は文学のためではなく帳簿から生まれた、という順序で押さえる。
7発展
アケメネス朝のダレイオス1世が断崖に残したベヒストゥーン碑文をもとに、メソポタミアで使われた文字の解読に成功したイギリス人は誰か。
解答を見る
解答:ローリンソン
解説:同じ内容が3種の言語・文字で刻まれていたことが手がかりとなり、19世紀半ばに解読が進んだ。古代の文字の解読は、たいてい「同じ文を複数の文字で書いた石」から始まる——この型を覚えておくと、他地域の解読史も同じ構造で理解できる。
8基本
前24世紀頃、セム語系の人々を率いてメソポタミア南部の都市国家を次々に征服し、この地域で最初の統一国家を建てた王は誰か。また、その人々を何というか。
解答を見る
解答:サルゴン1世/アッカド人
解説:征服された側の言語は、日常の言葉としてはやがて姿を消すが、文学と学問の言葉として千年以上使われ続けた。いっぽう征服した側の言語は、のちのオリエントで国際的な共通語になる。統一は数代で崩れるが、「都市国家の並立」から「広い領域を一人の王が治める国家」へという段階の変化を示す最初の例として重要である。
9発展
セム語系の統一国家が衰えたのち、メソポタミア南部で再び興り、前2000年頃にエラム人などの侵入によって滅んだ王朝を何というか。
解答を見る
解答:ウル第3王朝
解説:南部の都市国家を築いた人々による最後の王朝とされ、整備された法典(ウル=ナンム法典)や膨大な行政文書を残した。この法典はのちの統一王朝の法典より三百五十年ほど古く、「最古の法典」を安易に断定する記述には注意が必要である。
10基本
前19世紀初め、セム語系のアムル人がメソポタミアに建てた王朝を何というか。
解答を見る
解答:バビロン第1王朝(古バビロニア王国)
解説:都はユーフラテス川中流のバビロン。第6代の王のときに全メソポタミアを統一して最盛期を迎えた。 誤答注意:「バビロン第1王朝=古バビロニア王国」は同じものの別称。前6世紀の新バビロニア(カルデア)とは千年以上へだたっており、この二つの混同は頻出の誤文パターンである。
11基本
前18世紀に全メソポタミアを統一し、運河の開削や法の整備につとめた王は誰か。
解答を見る
解答:ハンムラビ王
解説:都市ごとにばらばらだった慣習を、282条からなる一つの法にまとめさせた。広い領域を治める国家では、出自の異なる人々を同じ規則で裁く必要が生じる——法の編纂は文化事業である前に統治の道具だった、という因果で押さえる。
12史料
次は、前18世紀のメソポタミアで発布された法の一部である(現代語訳・大意)。
第196条 アウィールム(上層の自由人)が同じ身分の者の目をつぶしたならば、その者の目をつぶす。
第198条 ムシュケーヌム(平民)の目をつぶしたならば、銀1マナを支払う。
第199条 他人の奴隷の目をつぶしたならば、その奴隷の値の半分を支払う。 第196条・第198条・第199条(現代語訳の大意)
(1) この法を何というか。(2) 第196条が定めている刑罰の原則を何というか。
解答を見る
解答:(1) ハンムラビ法典 (2) 復讐法(同害報復)
解説:「目には目を」で知られるが、三つの条文を並べると別の顔が見えてくる。同じ害で報いる原則が適用されるのは同等の身分どうしの場合で、相手の身分が下がると賠償金による解決に置き換わる。つまりこれは平等な報復の法ではなく、身分差を前提として秩序を保つための法である。ここが記述問題の頻出論点。
石碑は高さ約225cmの玄武岩製で、上部に太陽神シャマシュから王が支配の象徴を受け取る場面が浮き彫りにされている。ルーヴル美術館所蔵。訳文は逐語訳ではなく、条文の趣旨を示す大意である。
13基本
前17世紀頃に小アジア(アナトリア)に強大な王国を建て、馬に引かせた戦車を用い、前1595年頃にメソポタミアへ遠征して当時の王朝を倒した、インド=ヨーロッパ語系の民族は何か。
解答を見る
解答:ヒッタイト(ヒッタイト人)
解説:早くから鉄器を利用したことで知られる。 誤答注意:「鉄製の武器を独占して軍事的に優位に立った」という説明は、現在の研究では疑問視されている。遠征を可能にしたのは主に馬引き戦車の機動力であり、鉄器の使用がオリエント各地へ本格的に広まるのは、この王国が滅んだ前1200年頃以降である。
14発展
前16世紀にメソポタミア南部の王朝が滅んだのち、その混乱に乗じてザグロス山脈の方面から進出し、この地を数百年にわたって支配した民族は何か。
解答を見る
解答:カッシート人
解説:遠征してきた側はそのまま居座らずに引きあげており、その空白に入りこんだのがこの民族である。 誤答注意:「二つの民族が同時に王朝を滅ぼした」と読める記述は、因果の順序を取り違えている。〈遠征と略奪 → 撤退 → 権力の空白 → 進出〉の順で押さえる。なお、この民族がザグロス方面の出自だとする通説には、近年留保も付されている。
15発展
前16世紀頃に北メソポタミアを中心として成立し、エジプト新王国と婚姻をともなう外交関係を結びながら西アジアの勢力を争った王国を何というか。
解答を見る
解答:ミタンニ王国
解説:支配層はインド=ヨーロッパ語系とみられ、住民の多くはフルリ人だった。この時期のアッシリアはまだ小さな勢力で、一時はこれを服属させていた。エジプトとは争いから婚姻をともなう友好関係へ転じたが、小アジアの王国に都を落とされ、そこへ自立したアッシリアが勢いを得たことで衰えた。 注意:アッシリアが西アジア一帯を制する大国になるのは、この王国も小アジアの王国も消えたあとの話である。「強大なアッシリアを従えていた」と読むと、勢力の順序を取り違える。
16発展
メソポタミアでは、次々に異なる民族が入りこんで支配者が交替した。エジプトと比べてこのような興亡が繰り返された理由を、地形の特徴にふれて簡潔に説明せよ。
解答を見る
解答:砂漠と海に囲まれて外部から隔てられていたエジプトと違い、開放的な平原で四方から人が入りこみやすかったため、周辺の遊牧民や山地の民族の進出を繰り返し受け、支配者が交替した。
解説:〈開放的な地形=異民族の興亡/閉ざされた地形=王朝の連続〉はオリエント史の基本の対比。今日の地図の海岸線をたどればわかるとおり、二つの大河の流域は北の山地からも、東の山脈からも、西の砂漠からも、山も海も越えずに到達できる位置にある。地理が政治史の形を決めた例として論述で使える。

日本史(14問)

単元:文化の始まり(旧石器・縄文)(温暖化した列島と縄文の暮らし)
17基本
動きの速い中小動物をとらえるために、縄文時代に広く使われるようになった狩猟具は何か。
解答を見る
解答:弓矢
解説:離れた距離から命中させられるため、見通しのきかない森の中の素早い獲物に有効だった。地面に掘った落とし穴(陥穽)と組み合わせた狩りの跡も各地で見つかっている。〈土器・弓矢・磨いた石の道具〉を縄文時代の三点セットとして覚えておくと、答案で書き漏らさない。
18基本
地面を掘りくぼめて床とし、数本の柱を立てて屋根をかけた、縄文時代の一般的な住まいを何というか。
解答を見る
解答:竪穴住居たてあなじゅうきょ
解説:中央に炉を設け、4〜5人が住んだとみられる。地面を掘ることで冬は熱が逃げにくく、夏は涼しい。移動を繰り返した旧石器時代のテント式の小屋と違い、同じ場所に住み続けるための構造であり、定住化を示す物証として重要である。
19基本
食べ終えた貝殻や獣骨、こわれた道具などが捨てられて積み重なった遺跡を何というか。
解答を見る
解答:貝塚
解説:貝殻のカルシウム分が土の酸性をやわらげるため、ふつうなら溶けてしまう骨や角が残る。当時の食生活、季節ごとの活動、埋葬の様子まで分かる情報の宝庫であり、単なるごみ捨て場とは言えない。人や犬の骨が丁重に葬られた例も見つかっている。
20基本
1877年、来日したアメリカ人の動物学者が東京の大森で貝殻の堆積した遺跡を発掘し、日本の近代考古学が始まった。(1) この人物は誰か。(2) この遺跡を何というか。
解答を見る
解答:(1) モース(エドワード=モース) (2) 大森貝塚
解説:横浜から東京へ向かう汽車の窓から崖の断面を見て気づいたと伝えられる(品川区の解説)。その報告書は日本で最初の近代的な発掘報告であり、「縄文」という呼び名も、彼が用いた cord marked pottery(縄目のついた土器)の訳語に由来するとされる。 注意:昨日のコラムに出た『贈与論』のマルセル・モースとは別人である。受験生の混同がとくに多い組み合わせなので、〈エドワード=考古学/マルセル=人類学〉で切り分ける。
21地図
図中Aは、縄文時代前期から中期にかけての大規模な集落跡で、大型の掘立柱建物ほったてばしらたてものの跡や、クリの管理・栽培をうかがわせる資料が見つかっている。図から位置を読み取り、この遺跡名を答えよ。
A太平洋日本海● A・B=設問の遺跡※海岸線は実測データ(簡略化)
解答を見る
解答:三内丸山さんないまるやま遺跡
解説:前3900年頃から前2200年頃まで、およそ1700年にわたって営まれた(特別史跡三内丸山さんないまるやま遺跡の公式表記)。長期の定住と、大規模な集落を計画的に営んだことを示す出土品は、「縄文=小規模で移動的な暮らし」というかつての理解を大きく書き換えた。東北北部にこれほどの集落が営めたのは、次の設問で見る森の恵みによる。
22基本
約1万年余り前に気候が温暖になったことで海面が上昇し、現在の平野の奥深くまで海が入りこんだ現象を何というか。
解答を見る
解答:縄文海進
解説:ピークは約6000年前とされ、関東平野では現在の埼玉県東部あたりまで入江が広がっていた。海から遠い内陸で貝殻の層が見つかるのはこのためである。〈温暖化 → 海面上昇 → 入江の増加 → 漁労の発達〉という連鎖で押さえる。
23基本
温暖化にともなって列島の森林も変化した。(1) 東日本に広がった森林、(2) 西日本に広がった森林を、それぞれ何というか。
解答を見る
解答:(1) 落葉広葉樹林 (2) 照葉樹林
解説:東はブナ・ナラなど、西はシイ・カシなどが中心。東日本ではクリ・クルミ・ドングリなど貯蔵のきく木の実が大量に得られたため、大規模で長続きする集落が営まれた。木の実は石皿とすり石ですりつぶし、あくを抜いてから食べる。「縄文文化の遺跡は東日本に濃い」という分布の偏りは、この植生の違いから説明できる。
24基本
大型動物が絶滅したのち、縄文時代の狩猟の主な対象となり、貝殻の層から骨が最も多く出土する2種の動物を答えよ。
解答を見る
解答:ニホンシカ/イノシシ
解説:動きが速く、大型獣のように大人数で追い込む狩りが通じない。獲物が変われば道具も変わる——この因果を押さえると、道具が「なぜ必要になったか」から理解できる。とった肉や木の実は、口が広く胴の深い深鉢形の土器で煮て食べた。
25基本
矢の先端に装着した、小型で鋭い打製石器だせいせっきを何というか。
解答を見る
解答:石鏃せきぞく
解説:黒曜石こくようせきなど、割れ口が鋭くなる石が選ばれた。木の柄には天然の接着剤や漆で固定する。同じ打製石器だせいせっきには、つまみのついた石匙いしさじのように皮はぎや調理に使うものもある。旧石器時代の尖頭器せんとうきが槍の穂先だったのに対し、こちらは矢の先——〈大きい=槍/小さい=矢〉というサイズの差で見分けるのが確実である。
26基本
動物の骨・角・牙を加工して作られた、釣針やもりなどの道具の総称を何というか。
解答を見る
解答:骨角器こっかくき
解説:漁労の発達を示す代表的な出土品。石では作れない、細くて粘りのある形(釣針の返しなど)を作れるのが利点である。海面上昇で入江が増えたこととあわせて理解すると、環境の変化がそのまま道具の変化になっていることが見える。
27発展
一本の木をくりぬいて作られ、内湾や湖沼での漁労・運搬に用いられた舟を何というか。
解答を見る
解答:丸木舟
解説:水に浸かった低湿地の遺跡では、木製品が腐らずに残ることがあり、櫂とともに出土する。旧石器時代にすでに島まで往復する航海が行われていたことを思えば、この舟は突然の発明ではなく、長い伝統の上に現れた道具だと分かる。
28発展
中央に墓や貯蔵穴をともなう広場をもち、その周囲に住まいが並ぶ、縄文時代中期の東日本に多い集落の形を何というか。
解答を見る
解答:環状集落
解説:中央の広場は共同の祭りや葬送の場だったと考えられている。住まいがそろって広場を向く配置は、集団の結びつきが空間の形そのものに表れた例といえる。
29図版
図は、縄文時代のある資源について、産地の帯A(模式)と、そこから運ばれた先の例(●)を示したものである。この資源は日本海側の一部で天然に産出する黒く粘りけのある物質で、矢の先の石器を柄に留めたり、割れた土器を接いだりする接着剤として使われた。(1) この資源は何か。(2) 産地から遠く離れた地域の遺跡でこれが出土することは、縄文時代の社会について何を示すか、簡潔に述べよ。
A太平洋日本海彩色の帯A=産地(範囲は模式)矢印と● =運ばれた先の例(模式)※海岸線は実測データ(簡略化)。産地の範囲と経路は模式
解答を見る
解答:(1) アスファルト(天然アスファルト) (2) 遠く離れた集団のあいだで物資が運ばれる交易(交換)が広く行われていたこと。
解説:産地は秋田・新潟など日本海側の油田地帯に限られるため、成分の分析から出土品の産地を推定する研究が進められている。 注意:北海道は産地ではなく受け取る側である。「北海道・東北の産地」とする記述は誤り。海をこえた交流が、この物質の分布から見えてくる。
30発展
縄文時代の墓には、規模や副葬品の量に大きな差がほとんど見られない。このことから当時の社会についてどのようなことがいえるか、生業のあり方にふれて簡潔に説明せよ。
解答を見る
解答:狩猟・漁労・採集による獲得経済が中心で、食料を大量に蓄えて富を一部に集中させることが難しかったため、身分の差や貧富の差がまだ生まれていない、ほぼ平等な社会であったと考えられる。
解説:昨日の世界史で見た〈灌漑農業 → 余剰 → 貧富の差〉という筋道の、ちょうど裏返しにあたる。ただし三内丸山さんないまるやまのような大規模な集落を営むには、まとめ役を担う人がいたはずだとも考えられている。答案では「完全に平等だった」と言い切らず、「大きな身分差は認めがたい」と書くほうが安全である。

コラム|歴史の裏話

法典の石は、戦利品として運ばれた

今日の史料で読んだ法の条文は、高さ2メートルあまりの黒い石柱に刻まれている。ではその石柱は、どこで見つかったか。答えは、法を発布した王の都ではない。1901年から翌年にかけて、フランスの調査隊が掘り当てたのは、東へ三百数十キロ、ザグロス山脈のふもとに広がる平野——エラムの都スサの遺跡だった。

石柱は、法が刻まれてから六百年ほどのちに、この地を攻めたエラムの王が戦利品として運び去ったものと考えられている。石には、条文の一部が意図的に削り取られた跡が残る。運び去った側が自分の功績をそこに刻むつもりだったのだろう、という見方があるが、確かなことは分かっていない。

皮肉なことに、この略奪が石を救った。都に置かれたままなら、後世の戦火や建材への転用で失われていたかもしれない。奪われて遠くへ運ばれ、そのまま土に埋もれたからこそ、三千七百年後の私たちが条文を読める。現在はルーヴル美術館が所蔵し、玄武岩の黒い肌に、楔形の文字がびっしりと並んでいる。

コラム|世界史 ↔ 日本史

王が法を刻んだとき、森の集落はもう終わっていた

今日の二つの範囲は、同じ時間の別の場所である。並べてみると、教科書の順番では見えないものが見えてくる。

前4000 前3500 前3000 前2500 前2000 前1500 前1000 縄文 都市国家の成立 メソポタミア南部にウル・ウルクなどが生まれる(前3000年頃) 最初の統一 アッカド人のサルゴン1世が南部を征服(前24世紀) 全メソポタミアの統一 バビロン第1王朝のハンムラビ王・法典の発布(前18世紀) バビロン第1王朝の滅亡 ヒッタイトの遠征(前1595年頃) 三内丸山の集落が営まれ始める(前3900年頃) 三内丸山の集落が終わる(前2200年頃) 法典が刻まれたころ、三内丸山の集落は絶えて四百年あまり ※帯の左右端は図の範囲。縄文はこの前後にも続く(弥生の開始は前10世紀頃=歴博説/前5〜4世紀頃=従来説) 世界史(メソポタミア) 日本列島(縄文) ※横軸は実時間スケール。年代は概数(三内丸山の年代は特別史跡三内丸山遺跡の公式表記に拠る)

三内丸山さんないまるやまに人が住み始めたのは、メソポタミア南部に都市国家が生まれるより九百年ほど前のことだ。つまり列島の大規模集落と両河の都市文明は、長いあいだ地球上に同時に存在していた。そして王が法を石に刻ませたころには、三内丸山さんないまるやまの集落はすでに絶えて四百年あまりが過ぎていた。

片方は文字と法と王を持ち、片方は持たなかった。だが持たなかった側が千七百年も続き、持った側の王朝は数百年で交替を繰り返している。「文明が進んでいる」ことと「長く続く」ことは別の話だという視点は、そのまま論述のネタになる。

論述の視点:国家や文字を「発展の到達点」として一列に並べる見方は、19世紀の進化主義の名残でもある。何が生まれたかだけでなく、なぜ生まれなかったのかを問うと、答案は一段深くなる。

フィールドノート

国家がないことは、国家に至っていないことか

今日の設問の最後で、縄文の墓に大きな格差が見られないことを確かめた。答案では「身分差が未発達」と書けば正解になる。だが「未」発達という言い方には、いずれ発達するはずだという前提がこっそり入っている。列島は一万年以上、王も法典も持たずに続いた。それは「まだ」なのだろうか。

人類学者ピエール・クラストルは『国家に抗する社会』で、南米の先住民社会を調べて逆の見方を示した。ローウィが先に抽出していた首長の特徴——平和の調停者であること、気前よく分け与えること、雄弁であること——を引き受けたうえで、クラストルはそこに、首長が命令する権力をもたないという事実を重ねた。誰も従う義務を負わない。クラストルはこれを権力の未熟さではなく、権力が一点に集まらないよう働く仕組みだと読んだ。国家がないのではなく、国家に抗している、というわけである。

この見方には批判もある。「拒んでいる」ことを考古学の証拠から示すのは難しく、意図を読み込みすぎだという指摘は当然ありうる。そもそもクラストルが見たのは南米の社会であって、縄文の列島をそのまま説明する根拠にはならない。

それでも、比較の道具としては効く。今日の世界史では、余剰を数える者が現れ、数えられる側との間に線が引かれ、その線が法として石に刻まれた。列島では余剰が生まれにくい生業が長く続き、線は引かれなかった。ここに「豊かさが足りなかったから」以外の説明を用意できるかどうか——それが、暗記と考察を分ける境目になる。

今日の鍵語:クラストル『国家に抗する社会』/命令しない首長 *昨日の贈与論(マルセル・モース)と組み合わせると、〈回して返す富〉と〈溜めて数える富〉の対比になる。今日の日本史に出たエドワード・モースとは別人なので注意。

この号をシェア

友達を誘う

Instagram のボタンはストーリーズを開きます(アプリのある端末)。文面は自動でコピーされるので、リンクスタンプやテキストに貼り付けてご利用ください。

高校歴史探究・大学受験レベル|Day 002