DAY 003
2026年8月17日(月)

神になった王と、壊された土偶

世界史:古代オリエント文明とその周辺 日本史:文化の始まり(旧石器・縄文)

世界史(16問)

単元:古代オリエント文明とその周辺(ナイルの谷に生まれた王国)
1基本
古代エジプトで、太陽神の子とされ、神そのものとして国土と人民を支配した王の称号を何というか。
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解答:ファラオ
解説:もとは「大きな家(王宮)」を意味する語が、やがて王その人を指すようになった。二つの大河の流域では王が神の代理人にとどまったのに対し、こちらは王自身が神とされる。この違いが王権の安定度と神官団の位置づけの差を生み、比較問題の定番になっている。なお「王が神そのもの」という言い方は教科書の要約で、現行の研究では王の神性は職掌と儀礼に由来し、主要な神々のそれとは同格でないとされる。
2基本
前27世紀頃から、ナイル川下流域を中心に栄え、巨大な王墓が築かれたエジプトの時代区分を何というか。
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解答:古王国
解説:王の権力が最も強く、神である王のための王墓の造営に国家の力が注がれた時代。時代区分は〈古王国・中王国・新王国〉の三つと、そのあいだにはさまる混乱期(中間期)をセットで覚えると、王朝の入れ替わりが整理できる。
3基本
混乱期をはさんで前21世紀頃にエジプトが再び統一されて成立し、前18世紀頃まで続いた時代区分を何というか。
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解答:中王国
解説:都は上流の都市に置かれたが、続く王朝はさらに北へ都を移している。 注意:「この時代の都は上流の都市」と単純化した記述は、王朝によって都が異なるため不正確になる。終わりの年代も定義に依存し、第12王朝までとみれば前18世紀、第13王朝の前半までを含める近年の区分では前17世紀(前1650年頃)となる。この時代の末期に西アジア系の人々が流入し、次の転換につながる。
4基本
前17世紀頃、馬と戦車をたずさえてシリア・パレスチナ方面からエジプトへ入り、一時デルタ地帯を支配した西アジア系の人々を何というか。
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解答:ヒクソス
解説:教科書は「侵入」と記すが、近年の研究では、数世代かけて移り住んだすえに内部から権力を握った過程とみる見解が有力である(デルタの遺跡の出土人骨のストロンチウム同位体分析は、権力を握る以前から外来者の流入が多く、支配期にはその地で生まれた人が増えるという、この見方と整合的な傾向を示した)。人の流入そのものは前18世紀頃から始まっている。彼らがもたらした馬と戦車は、のちにエジプト自身の軍事力の柱になる——外から来た技術が、追い出したあとに残るという型で覚える。
5基本
前16世紀に西アジア系の支配を排して成立し、シリアへ進出してエジプト史上最大の版図を築いた時代区分を何というか。
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解答:新王国
解説:それまで守りに徹していた国が、外へ攻め出る国に変わった時代。戦車を主力とする軍が編成され、シリアをめぐって小アジアの強国と衝突する。閉じた谷の文明が、初めて国際政治の主役になった段階と押さえる。
6史料
次は、前5世紀のギリシアの歴史家が著した書物の一節である(現代語訳・大意)。
ギリシア人が船で行くエジプトは、エジプト人にとって後から得られた土地であり、川の賜物である。 『歴史』第2巻5節(原文からの訳)
(1) この書物を著した歴史家は誰か。(2) この一句が言い表している内容を、ナイル川の氾濫はんらんにふれて簡潔に説明せよ。
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解答:(1) ヘロドトス (2) ナイル川が毎年ほぼ決まった時期に氾濫はんらんし、上流から運ばれた肥沃な土が流域に積もることで豊かな農業が可能になり、その恵みの上にエジプトの文明が成り立っていたということ。
解説:氾濫はんらんの時期が予測できたことが決定的だった。水が引いたあとに種を蒔けばよく、いつ水が来るかを知るために天体の観測と暦が発達する。恵みが「暴れ川」ではなく「時計」だったことが、この文明の性格を決めた。 注意:原文はさらに「この湖より上流、船で三日の行程までの土地もそうだ」と範囲を広げており、下流のデルタだけを指した言葉ではない。また原文は「ナイル」ではなく「川」と書いている——「エジプトはナイルの賜物」という短い形は後世に縮められた言い回しであって、原文そのままの一文ではない。
7地図
図は大河の流域である。Aは下流寄りに位置し、伝承ではエジプト最初の統一王朝の都とされる都市、Bは上流域にあり、対岸に王家の谷をひかえた都市である。A・Bの都市名をそれぞれ答えよ。
ABナイル川(模式)地中海紅海● A・B=設問の都市青線=大河(流路は模式)※海岸線は実測データ(簡略化)。河川の流路は模式
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解答:A=メンフィス B=テーベ
解説:Aは上流域と下流域の境目にあたる位置にあり、統一国家の都として選ばれた。Bは上流域の中心で、主神の大神殿が置かれ、王たちは対岸の谷に岩を掘って葬られた。〈下流=古い都/上流=のちの都〉と流れの向きで整理する。
8基本
前14世紀、それまでの多神教の信仰を禁じ、一つの神だけをまつらせる改革を行ったエジプトの王について答えよ。(1) この王の名(改称後の名でもよい)。(2) この王がまつらせた神。(3) この王が新たに都を移した地。
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解答:(1) アメンホテプ4世(イクナートン) (2) アトン (3) テル=エル=アマルナ
解説:王は自らの名を「この神にとって有益な者」を意味する名に改め、旧来の主神の名を含む元の名を捨てた。名を変えることが改革の宣言そのものだったわけである。実際に行われたのは全神の禁止というより、旧来の主神とその配偶神の名と像を各地の記念物から削り取ることだった。改革は一代で終わり、まもなく旧来の信仰が復活して、王宮もアマルナから下流のメンフィスへ移る。
9基本
前13世紀のエジプトの王で、シリアの地で小アジアの王国と大規模な戦いを交え、のちに和平の条約を結んだ人物は誰か。またその戦いを何というか。
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解答:ラメス2世(ラメセス2世)/カデシュの戦い
解説:相手は前号で扱った小アジアの王国。エジプト側は神殿の壁に大々的に勝利として記録したが、研究では引き分け、あるいはエジプト側の失敗とみる見方が有力で、結局この地は相手側に残った。のちに結ばれた条約の文はエジプト側とヒッタイト側の双方の記録に残っており、内容を突き合わせられる古い外交文書として知られる。
10基本
古代エジプトで用いられた文字のうち、(1) 石碑や墓室に刻まれた絵文字風のもの、(2) 日常の記録に使われた簡略な書体を、それぞれ何というか。
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解答:(1) 神聖文字(ヒエログリフ) (2) 民用文字(デモティック)
解説:この二つの中間に神官文字(ヒエラティック)がある。〈神聖=石に刻む正式体/神官=筆で書く速記体/民用=日常の略体〉と用途で三つを並べると混同しない。なお民用文字は、書体の違いであると同時に、より後の時代のエジプト語をうつしてもいる。次の問で扱う石碑に刻まれた3種は〈神聖文字・民用文字・ギリシア文字〉で、神官文字は含まれない。
11基本
1799年、ナポレオンのエジプト遠征のさいにナイル川河口の町で発見され、同じ内容が3種の文字で記されていたことから古代エジプトの文字の解読の鍵となった石碑を何というか。また、これをもとに解読を成し遂げたフランス人は誰か。
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解答:ロゼッタ=ストーン/シャンポリオン
解説:3種のうち一つがギリシア文字だったため、読める文と読めない文を突き合わせることができた。石そのものはその後イギリスの手に渡り、現在は大英博物館にある。〈発見はフランス、所蔵はイギリス、解読はフランス人〉という、ややこしいが問われやすい組み合わせ。
12基本
ナイル川の増水の時期を知るために天体の観測が重ねられ、1年を365日とする暦がつくられた。この暦を何というか。
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解答:太陽暦
解説:月の満ち欠けを基準とする暦を用いた二つの大河の地域と対比すると覚えやすい。氾濫はんらんが毎年ほぼ同じ季節にくり返されたため、暦の目盛りは月ではなく1年の側に必要だった。実際に年の始まりの目印とされたのは、シリウスが日の出の直前に姿を現す時期で、これが増水の時期とほぼ重なった。のちにローマへ伝わってユリウス暦のもとになり、現在の暦につながっていく。注意:この暦は1年を365日ちょうどとし、閏日を置かなかった。そのため日付と実際の季節は4年に1日ずつずれていき、もとに戻るまでに約1460年かかる。「太陽暦」と分類されるが、太陽の運行に合わせ続ける仕組みは持っていない——閏日はユリウス暦で加えられた。
13発展
前15世紀のエジプトの王で、たびたびシリア方面へ遠征してエジプトの領土を最大に広げた人物は誰か。
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解答:トトメス3世
解説:即位の当初は先代の女性の王が実権をにぎっており、その死後に親政を始めて遠征を重ねた。征服地の首長の子弟をエジプトへ連れてきて、父の死後にその子を後継として立てる方式をとり、力だけでなく人を介した支配のしくみを整えている。
14発展
ミイラとともに墓におさめられた、死後の審判を無事に通過して来世に入るための呪文と挿絵を、パピルスなどに記したものを何というか。
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解答:『死者の書』
解説:審判は冥界の「二つの真理の広間」で行われ、心臓が真理の女神の羽根と釣り合えば来世に迎えられ、釣り合わなければ怪物に心臓を食われて消滅するとされた。定まった一冊があるわけではなく、注文に応じて必要な章を選んで作られた。名前の欄を空けたまま先に作っておき、あとから書き入れる既製品も広く出回っていた。来世を具体的に思い描き、そこへ到達する手順を書き残すという発想は、この文明の死生観をよく表している。
15発展
前13〜12世紀頃、東地中海一帯を移動して各地の王国を動揺させ、エジプトにも二度にわたって来襲した諸集団の総称を何というか。
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解答:「海の民」
解説:単一の民族ではなく、出自の異なる複数の集団の総称とされ、実体には諸説ある。この時期に小アジアの王国も滅んだが、滅亡の要因は干ばつ・飢饉・内部の動揺など複数が挙げられ、この集団が果たした役割の大きさには議論がある。エジプトは2度の来襲をいずれも撃退したが、この混乱のなかでシリア・パレスチナの領土を失った。 注意:前号で扱った「鉄器が広まるのは前1200年頃以降」という年代は、この東地中海の秩序崩壊と時期が重なる。ただし「鉄の技術が小アジアの王国に独占されていて、滅亡によって流出した」という説明は、現在の研究では否定されている。
16発展
前14世紀のエジプトでは、それまでの信仰を禁じて一つの神だけをまつらせる宗教改革が行われた。この改革が目指したものを、王と神官団の関係にふれて簡潔に説明せよ。
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解答:領土の拡大とともに強大化し、王権をおびやかすまでになっていた従来の主神の神官団の勢力を抑え、信仰と権威を王のもとに一元化して王権を強化しようとした。
解説:宗教の話に見えて、権力の配分の問題が背後にあったとみる説明が広く採られている。遠征で得た富が神殿へ流れこむほど神官団が力を持つ、という構造をつかむと、改革が「なぜその時期に」起きたのかが説明できる。改革が一代で崩れた事実は、神官団の力がそれだけ強かったことの裏返しでもある。

日本史(10問)

単元:文化の始まり(旧石器・縄文)(縄文の祈りと葬り、そして交わり)
17基本
多くは女性をかたどり、豊かな実りや出産を祈る呪術じゅじゅつに用いられたと考えられている、縄文時代の土製品を何というか。
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解答:土偶
解説:完全な形ではなく、壊された状態で出土することが多い。わざと壊すことで災いを身代わりに引き受けさせた、あるいは壊して再生を願ったとする説がある。弥生時代以降はほとんど作られなくなり、祈りの形が変わったことを示す。
18基本
男性の生殖器をかたどったとみられる、縄文時代の石製品を何というか。
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解答:石棒せきぼう
解説:土偶と対をなす、生命の再生産にかかわる祈りの道具と考えられている。住居や広場に立てられた例も知られ、日常の空間と祈りの空間が分かれていなかったことをうかがわせる。長いものは1メートルを超え、長野県佐久穂町の北沢大石棒せきぼうは全長2.2メートルを超える。
19基本
縄文時代に、特定の歯を抜いた風習を何というか。
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解答:抜歯ばっし
解説:抜く歯の位置や本数に集団ごとの決まりがあり、通過儀礼として、また集団への帰属を示す印として行われたと考えられている。晩期には歯を叉のように削る叉状研歯も現れる。痛みをともなう不可逆な加工である点が、儀礼としての重さを物語る。
20図版
図は、縄文時代の墓に多い埋葬の姿勢(A)と、のちの時代に一般化する姿勢(B)を模式的に示したものである。(1) Aのような葬法を何というか。(2) Aの姿勢がとられた理由として考えられていることを、簡潔に述べよ。
A縄文時代の墓に多いBのちの時代に一般化する※模式図(破線は墓の穴。人骨の配置は模式)
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解答:(1) 屈葬くっそう (2) 死者の霊が外へ出て災いをもたらすのを防ぐためとする説や、母胎の中の姿勢に戻すことで再生を願ったとする説などが唱えられている。
解説:ほかに、穴を掘る労力を減らすためという現実的な説もあり、理由は一つに定まっていない。答案では「〜と考えられている」と留保をつけて書くのが安全である。胸の上に石を置いた例(抱石葬)も見つかっており、霊を封じる意図を読む根拠とされる。
21地図
図中Aは千葉市にある国内最大級の貝塚で、環状の北貝塚と馬蹄形の南貝塚が8の字形に連なる。この遺跡名を答えよ。
A太平洋日本海● A=設問の遺跡※海岸線は実測データ(簡略化)
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解答:加曽利かそり貝塚
解説:二つの貝塚が重なる形で、縄文時代中期から後期・晩期にかけて長く営まれた。貝塚は捨て場であると同時に、土器・骨角器こっかくき・人骨・獣骨が層をなして残る記録でもある。〈貝殻のカルシウムが土を中和し、ふつうは溶けてしまう骨が残る〉という保存の理屈まで押さえると、なぜ貝塚から縄文人の暮らしが読めるのかが説明できる。
22発展
縄文時代の遺跡では、人と同じように穴を掘って丁重に葬られた犬の骨が見つかることがある。この埋葬の仕方から、当時の人々が犬をどのような存在として扱っていたと考えられるか、簡潔に述べよ。
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解答:解体されて捨てられた食用の動物とは区別され、狩りをともにする働き手として飼われて、死んだあとも人と同じように葬るべき存在とみなされていたと考えられる。
解説:イノシシやシカの骨がばらばらの状態で捨てられるのに対し、犬は全身の骨がそろった状態で、人の墓域に穴を掘って葬られた例が各地の貝塚から知られる(宮城県の田柄貝塚では22基、千葉県でも草刈・根田祇園原・西広の各貝塚で確認されている)。生前に抜けた歯や折れた骨が治っている個体もあり、働けなくなったあとも世話をされていたことがうかがえる。同じ動物の骨でも、捨て方が違えば意味が違う——出土の「され方」から当時の扱いを読む見方は、貝塚の資料を考えるときの基本になる。なお弥生時代になると埋葬例は激減し、ばらばらの状態で出土する例が多くなる。
23基本
縄文時代の遺跡から出土する、網を使った漁が行われていたことを示す、小さな石や土の製品を何というか。
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解答:石錘せきすい・土錘どすい
解説:網の下端に付けて沈めるために使われた。個々は地味な出土品だが、大量に見つかれば「網を張る規模の漁が組織的に行われていた」ことの証拠になる。銛や釣針が個人の漁を示すのに対し、こちらは集団の漁を示す——道具から人数を読む、という考え方の練習になる。
24発展
縄文時代の石器の材料として、奈良県と大阪府の境にある二上山や瀬戸内海沿岸の一部で産出し、割ると鋭い刃ができることから近畿・瀬戸内一帯へ広く運ばれた安山岩の一種を何というか。
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解答:サヌカイト(讃岐石)
解説:もう一つの主要な産地である香川県の旧国名「讃岐」にちなむ名で、和名は讃岐岩。黒曜石こくようせきとならぶ石器の材料で、産地が限られるため、出土した分布から運ばれた範囲をたどることができる。東日本の黒曜石こくようせき、西日本のこの石、という対応で押さえると、交易の話が地理と結びつく。
25発展
遺跡の数などから推計された縄文時代の列島の人口は、中期をピークとして後期以降は減少したと考えられている。この減少の背景として指摘されている当時の気候の変化と、それが人々の暮らしに与えた影響を簡潔に説明せよ。
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解答:中期の末ごろから気候が寒冷化し、それにともなう環境の悪化で得られる食料が減ったため、東日本を中心に集落が縮小・移動し、それまでの人口を支えきれなくなったと考えられている。
解説:温暖な時期に東日本の内陸へ広がった集落が、後期以降は縮小・移動する傾向を見せる。〈温暖なあいだに増え、寒冷化とともに減る〉と、気候と人口を一本の線でつないで押さえる。 注意:寒冷化は減少の引き金として指摘されるもので、原因を寒冷化だけに帰す説明は単純化にあたる。食料資源の構成の変化や集落のあり方の変化など、複数の要因が議論されている。また人口推計は遺跡の数からの推定であり、値の幅は大きい。
26発展
縄文時代の人々は、自然の背後に霊的な力を認め、儀礼を重んじていたと考えられている。その根拠となる出土品や習俗を2つ挙げ、それぞれがどのような理由でそう解釈されるのかを簡潔に説明せよ。
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解答:(例)土偶——完全な形ではなく、意図的に壊された状態の破片で出土する例が多く、日用品としては説明がつかないことから、呪術じゅじゅつに用いられたと解釈される。抜歯ばっし——健康な歯をわざわざ抜く行為で、実用の利益がなく、抜く歯の位置に集団ごとの決まりがあることから、通過儀礼として行われたと解釈される。(石棒せきぼう、屈葬くっそう、犬の埋葬なども可)
解説:〈祈りの道具(土偶・石棒せきぼう)/死者の扱い(屈葬くっそう)/身体への加工(抜歯ばっし)〉と、根拠を三つの型に分けておくと、どんな出題でも二つは選び出せる。答案の質を分けるのは事例の数ではなく、「実用では説明がつかない」という論の運び方のほうである。いずれも「そう解釈されている」段階の話なので、断定せずに書くこと。

コラム|歴史の裏話

解読の鍵は、戦利品として海を渡った

今日の設問に出た石碑は、1799年にナポレオンのエジプト遠征に従軍した兵士が、要塞の工事中に見つけたとされる。ところがフランス軍はまもなくイギリス軍に敗れ、1801年の降伏の条件として、集めた古物の多くを引き渡すことになった。石碑はこうして海を渡り、翌年から大英博物館に置かれて今日に至る。

もっとも、フランスは実物を失っても解読では勝った。石碑の文面は、カイロで石そのものを版としてインクで刷り取った複製や、ロンドンで作られた石膏の複製、ギリシア語部分の版画といった形でヨーロッパ各地の学者のもとへ渡っており、そこから読み解いていったのがシャンポリオンだった。彼はイギリスのヤングらの成果を踏まえつつ、この文字が絵の意味だけでなく音も表していることを突き止める。実物を目にしたのは、1824年にロンドンを訪れた一度きりだったという。「読めない文字」を「読める文字」に変えたのは、石そのものの所有ではなく、写しの流通だったという点は、資料と知識の関係を考えるうえで示唆に富む。

ちなみに、石碑に刻まれているのは王への感謝を述べた祭司たちの布告である。当時の反乱の経緯なども記されてはいるが、この石碑の価値がとびぬけて大きいのは、書かれていた内容よりも、同じことが三通りに書かれていたことのほうだった。

コラム|世界史 ↔ 日本史

王が神になった谷と、誰も神にならなかった森

今日の二つの範囲を、同じ時間軸に置いてみる。

前3000 前2500 前2000 前1500 前1000 前500 縄文 弥生開始は両説並立(歴博説 前10世紀〜従来説 前5〜4世紀) 古王国 メンフィスを都に、巨大な王墓が築かれる(前27世紀〜) 中王国 テーベを都に再統一(のち北のイチタウイへ)(前21世紀〜) 新王国 西アジア系の支配を排し、シリアへ進出(前16世紀〜) 「海の民」の来襲 東地中海の秩序が崩れる(前13〜12世紀) 縄文後期の始まり(前2500年頃) 縄文晩期の東北に精巧な土器(前1000年頃) 海の民が東地中海を揺らしたころ、列島は縄文晩期に入る 世界史(エジプト) 日本列島(縄文) ※横軸は実時間スケール。年代は概数で、王国の区分年代には諸説がある

ナイルの谷で王が神とされ、巨大な王墓が築かれていたころ、列島は縄文時代の中期から後期にさしかかるあたりにあたる。人口が最も多かったと推計される、いわば縄文の絶頂期である。だがそこには王の墓も、王の名を記した碑もない。豊かだったのに、突出した一人の存在を示すものは見つかっていない。

両者を分けたのは、余剰を誰か一人に集められる形で蓄えられたかどうかだろう。穀物は量が測れて倉に積め、他人に預けられる。木の実や貝も蓄えられはするが、氾濫はんらんが毎年運んでくる肥沃な土のように、大量かつ計算できる形では増えない。測れて、積めて、預けられるものが現れたとき、それを管理する者が現れ、やがて神の名で正当化される。

論述の視点:「なぜ王が生まれたか」と問うと富の量の話になりがちだが、「なぜ生まれなかったか」と問うと富の性質の話になる。同じ現象を裏から問い直す構えは、比較史の答案でそのまま使える。

フィールドノート

毎年おなじ川が氾濫はんらんすることの、意味のほう

今日の史料で、ナイルの氾濫はんらんが農業を支えたことを確かめた。答案では「肥沃な土が堆積した」と書けば正解になる。だが、毎年きまって同じことが起きるという経験そのものが、人の時間の感じ方をつくり変えた可能性は、答案の外にこぼれ落ちる。

宗教学者ミルチャ・エリアーデは『永遠回帰の神話』『聖と俗』で、多くの古い社会にとって時間は一直線に進むものではなく、祭りのたびに始まりの時へ立ち返る円環だったと論じた。新年の儀礼は「一年が過ぎた」ことを記念するのではなく、世界が創られたその瞬間をもう一度なぞり、汚れた時間を捨てて世界を新しくするのだという。氾濫はんらんが毎年すべてを洗い流し、また新しい土を敷いていく土地では、この感覚は比喩ではなく目に見える事実だっただろう。

今日の鍵語:エリアーデ/聖なる時間・円環する時間/始まりへの回帰 *直線的な時間の観念がどこから来たのかは、のちにヘブライ人の歴史意識を扱う回で改めて考える。

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高校歴史探究・大学受験レベル|Day 003