世界史(16問)
単元:古代オリエント文明とその周辺(東地中海に生きた小さな民)
1基本
地中海の東岸に多くの都市国家を築き、地中海の海上交易と各地への植民市の建設で知られる民を何というか。
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解答:フェニキア人
解説:平野が狭く、すぐ後ろまで山が迫る土地で、農地には恵まれなかった。船を出すことが暮らしの手段になったのはそのためである。統一国家をつくらず、都市ごとに独立していたことも特徴で、この点はギリシアの都市国家と似ている。〈耕せない土地=海へ〉という地理と生業の結びつきで押さえる。
2基本
東地中海の都市国家の人々が北アフリカに築いた植民市で、のちに西地中海の交易を握り、ローマと覇権を争った都市はどこか。
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解答:カルタゴ
解説:伝承では前814年の建設とされる。母市との関係は支配・被支配ではなく、宗教と交易でゆるやかにつながる関係だったとみられている。のちのポエニ戦争でローマと戦う相手だが、この段階では「東地中海の民が西へ広げた交易網の西端」として押さえておくとよい。
3基本
東地中海の海上交易を担った民が用い、ギリシア人に伝わってアルファベットの起源となった表音文字を何というか。
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解答:フェニキア文字
解説:22の記号はすべて子音を表す。ギリシア人はこれを受け取り、自分たちの言語に不要だった記号を母音字に転用して、母音を書き分ける文字体系をつくった。〈子音だけの文字→母音字の追加→ヨーロッパ諸文字〉という流れで押さえる。エジプトの神聖文字が数百の記号を要したのに対し、数十で足りる文字は商人の道具として広まりやすかった。
4基本
シリア内陸のオアシス都市を拠点に、ろばやらくだの隊商を組んで各地を結ぶ中継貿易で栄えた民を何というか。
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解答:アラム人
解説:海の道と陸の道が分業のように分かれていた。この民の言語はやがてオリエント一帯の商業の共通語となり、のちの大帝国でも行政に用いられた。〈海=地中海の民/陸=内陸の民〉という対で、交易の二つの経路を整理しておく。
5基本
オリエントの諸民族は言語によって系統づけられる。(1) アッカド人・バビロニア人や、今日扱う東地中海の諸民族の多くが属する語派の総称、(2) ヒッタイト人やのちのペルシア人が属する語族の名を、それぞれ答えよ。
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解答:(1) セム語系 (2) インド=ヨーロッパ語系
解説:語族の区分は言語の系統であって、人種や文化の区分ではない。オリエント史では〈メソポタミア南部とシリア・パレスチナ=セム語系/小アジアとイラン高原=インド=ヨーロッパ語系〉という大まかな見取り図をもっておくと、民族名が出てきたときに位置が推測できる。ただしシュメール人はどちらにも属さない系統不明の民で、この図式の外にある。
6地図
図のAは、海に開いた港をもち、貝からとった染料の産地として栄えた都市国家で、北アフリカへの植民市を送り出した都市である。Bは、そこから内陸に入ったオアシスにあり、隊商の集まる中継地として栄えた都市である。A・Bの都市名をそれぞれ答えよ。
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解答:A=ティルス B=ダマスクス
解説:Aと並ぶ港市にシドンがあり、二つの都市の名は交易の代名詞として各地の記録に現れる。Bは現在まで人が住み続けている都市の一つで、砂漠の縁のオアシスに位置する。〈港をもつ都市/内陸の都市〉と、立地で対にして覚える。
7基本
『旧約聖書』の伝承によれば、エジプトで圧迫を受けていた人々を率いてシナイ半島へ脱出したとされる指導者は誰か。またこの出来事を何というか。
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解答:モーセ/出エジプト
解説:前13世紀頃の出来事と伝えられるが、同時代のエジプト側の記録には該当する記述が確認されておらず、史実性には議論がある。教科書は「伝承では」と断ったうえで扱う。この脱出と、シナイで神と結んだとされる契約が、のちの信仰の原点として語り継がれた。
8基本
(1) ヘブライ人の王国を統一し、丘の上の都市を都と定めた王、(2) その子で、王国の最盛期を築き、都に壮大な神殿を建てた王を、それぞれ答えよ。
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解答:(1) ダヴィデ王 (2) ソロモン王
解説:王国が栄えたのは前1000年頃で、エジプトもメソポタミアの大国もそろって弱まっていた時期にあたる。〈大国の谷間に小国の最盛期〉という構図は、オリエント史でくり返し現れる。神殿の造営や宮廷の維持のために課された重い負担が、次の分裂の原因になった。
9基本
神殿を建てた王の死後、重い負担への不満から王国は南北に分裂した。北の王国と南の王国を、それぞれ何というか。
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解答:北=イスラエル王国/南=ユダ王国
解説:北は前722年にアッシリアに、南は前586年に新バビロニアに滅ぼされる。〈北が先に、南があとから〉と滅亡の順序で整理する。北の住民は各地に移されて行方をたどれなくなり、その後の歴史をつくったのは南の王国の系譜だった。
注意:分裂の年代は教科書では前922年頃とされるが、学術的には前931/930年頃とする説も有力で、絶対年代は確定していない。南の王国の滅亡も、教科書は前586年とするが、学術的には前587年と前586年の両説が並立する。
10史料
次は、『旧約聖書』におさめられた詩の一節である(現代語訳・大意)。
バビロンの川のほとりに座り、シオンを思い出して、わたしたちは泣いた。竪琴は柳の木にかけたままだった。捕らえ移した者たちが歌を求めても、異国の地で主の歌をうたうことなどできようか。
『旧約聖書』「詩編」第137編(第1〜4節の大意)
(1) この詩がうたっている、住民が都から強制的に移された出来事を何というか。(2) 詩のなかでしのばれている「シオン」は、彼らの神殿があった都市を指す。その都市名を答えよ。
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解答:(1) バビロン捕囚 (2) イェルサレム
解説:前586年に南の王国が滅ぼされ、住民の多くがメソポタミアの都へ移された。故郷を失ったこの時期に、神殿での儀礼にかわって律法と記録の編集が信仰の中心となり、のちの宗教の骨格ができていく。〈国を失ったから宗教が固まった〉という因果の向きが問われやすい。
注意:この詩の成立年代には議論があり、捕囚期のものとする見方が有力だが、確定はしていない。捕囚からの解放は教科書では前538年とされるが、学術的にはその前年(前539年10月)の入城を起点に数える。
11基本
(1) この民が信仰した唯一神の名、(2) 自分たちと神との関係をどう捉えていたかを表す、彼らの信仰の中心にある考え方を、それぞれ何というか。
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解答:(1) ヤハウェ (2) 選民思想
解説:多くの神を並べてまつるのが当たり前だった古代オリエントで、ただ一つの神だけを認める信仰は際立っている。苦難が続いても信仰が崩れなかったのは、〈苦難は神が見捨てた証拠ではなく、契約に背いたことへの試練である〉と説明する枠組みが用意されたからだと論じられている。
12発展
苦難の時代に待ち望まれるようになった、神から遣わされて民を導くとされる者を何というか。
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解答:メシア
解説:日本語では「救世主」と訳される。もとは「油を注がれた者」の意味で、王や祭司の即位の儀礼に由来する語だった。それが「いつか現れて民を救う者」の意味へ移っていく。この観念は、のちにキリスト教が生まれる土台になる(ギリシア語に訳した語が「キリスト」である)。
13発展
この民は周囲からヘブライ人と呼ばれたが、自分たちは別の名で称した。また、南の王国の滅亡と強制移住ののちには、第三の呼び名が一般化する。(1) 自称、(2) のちに一般化した呼称を、それぞれ答えよ。
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解答:(1) イスラエル人 (2) ユダヤ人
解説:三つの呼称は、時期と立場で使い分けられる。〈ヘブライ人=他称/イスラエル人=自称/ユダヤ人=南の王国の名に由来し、離散ののちに定着した呼称〉と対応させる。教科書が時期によって呼び名を変えているのは、この経緯をなぞっているためである。
注意:三つの語の使い分けには研究上の幅があり、史料上の用例も一様ではない。教科書の整理は理解のための便宜的なものである。
14発展
東地中海岸の山地に産し、船材や神殿の用材としてエジプトなどへ輸出された、この地方の代表的な木材を何というか。
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解答:レバノン杉
解説:大河のない土地で、輸出できるものは木材と加工品と技術だった。エジプトは早くからこの木材を求めて東岸の港と取引しており、交易路は王国どうしの関係より古い。伐採が数千年続いた結果、現在この木の自然林はごくわずかしか残っていない。
15発展
内陸の中継貿易を担った民が用い、のちにヘブライ文字・アラビア文字・ソグド文字など東方の多くの文字のもとになった文字を何というか。
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解答:アラム文字
解説:この文字はフェニキア文字から分かれ(同じ北セム系の文字から並行して分岐したとみる説もある)、東へ広がった。西へ向かった系統がギリシア文字を経てラテン文字(ローマ字)になり、東へ向かった系統が中央アジアの文字にまでつながる。〈同じ源から西と東へ〉と枝分かれの図で覚えると、のちの単元で出てくる文字の話がつながる。
16発展
地中海東岸の南部に定着し、鉄製の武器を用いてヘブライ人と争ったと『旧約聖書』が伝える民を何というか。
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解答:ペリシテ人
解説:この地方の呼び名(パレスチナ)は、この民の名に由来するとされる。前12世紀頃に東地中海を動揺させた諸集団の一派とみる説が有力だが、出自には議論がある。
注意:『旧約聖書』は彼らの鉄器の優位を語るが、考古学的にこの時期の両者の鉄器に明確な差を確かめるのは難しい。前号までに扱ったとおり、鉄器が本格的に広まるのは前1200年頃以降であり、特定の民が製鉄を独占していたという説明は現在の研究では支持されていない。
日本史(13問)
単元:農耕社会の成立(弥生・小国の分立)(水田がひらかれ、道具がそろう)
17基本
水稲農耕は、大陸のどの地域から日本列島に伝えられたと考えられているか。
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解答:朝鮮半島南部
解説:水田の作り方・農具の形・土器や墓の様式が、この地域のものとよく似ていることが根拠とされる。稲そのものは長江下流域が起源地とされるが、列島へ渡ってきた経路としては、この地域を経たとみる見方が有力である。〈起源地と経路は別の問い〉と分けて押さえる。
18基本
佐賀県唐津市にあり、縄文時代晩期にさかのぼる水田の跡が見つかった、日本最古級の水田遺跡を何というか。
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解答:菜畑遺跡
解説:水田の跡・炭化した米・大陸系の農具がそろって見つかり、稲作が縄文時代の終わりに始まっていたことを示した。〈稲作の開始=弥生時代の開始〉と単純に結べないのは、こうした縄文時代晩期の水田が見つかっているからである。
19地図
図のAは福岡市にあり、縄文時代の終わりから水田が営まれ、濠にかこまれた集落が築かれた遺跡である。Bは静岡市にあり、水田・住居・倉庫の跡がまとまって発掘され、戦後の発掘調査で広く知られた遺跡である。A・Bの遺跡名をそれぞれ答えよ。
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解答:A=板付遺跡 B=登呂遺跡
解説:Aは伝来したばかりの水田稲作の姿を、Bは各地に広がったのちの村の姿を示す。〈西の古い遺跡/東の後の遺跡〉と、地図の上での位置と時期の順序を重ねて覚える。Bの発掘は戦時中に始まったが調査は限られ、戦後の1947年からの本格調査で住居・倉庫・広い水田の跡が姿を現し、考古学が広く知られるきっかけになった。
20基本
稲の穂を摘み取るのに用いられた、半月形や長方形の磨製石器を何というか。
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解答:石包丁
解説:穴に紐を通して指にかけ、穂の首だけを摘み取る。株ごと刈るのではなく穂を摘むのは、稲の実り方がそろわなかったためと考えられている。のちに鉄の鎌が広まると根元から刈る方法に変わり、この道具は姿を消していく。
21基本
初期の水田に多くみられた、地下水位が高く排水の悪い田と、のちに増えていく、水路によって水を出し入れできる田を、それぞれ何というか。
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解答:湿田/乾田
解説:前者は水の確保が容易だが、地力が回復しにくく作業も重い。後者は排水と灌漑の設備が必要なかわりに収穫が安定する。〈手間の少ない田から、手のかかる田へ〉という移り変わりは、鉄製の工具が広まって土木工事ができるようになったことと結びついている。
22基本
弥生時代前期の耕作には、木を削って作った農具が用いられた。このうち、(1) 柄に対して刃がほぼ直角につくもの、(2) 柄の延長方向に刃がつくものを、それぞれ何というか。
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解答:(1) 木鍬 (2) 木鋤
解説:前者は土をかき起こし、後者は足で踏み込んで掘り返す。どちらも樫などの堅い木を、大陸から伝わった磨製の石斧で削り出して作られた。鉄が乏しい段階では、木の道具をいかに精度よく作るかが生産力を左右した。
23基本
収穫した籾を貯蔵するために建てられた、湿気と食害を防ぐ構造をもつ倉を何というか。また、柱を伝って小動物が上がるのを防ぐために取り付けられた板を何というか。
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解答:高床倉庫/ねずみ返し
解説:床を地面から離して建てることで、湿気と食害を防ぐ。同時に「蓄えがある」ことを目に見える形にする建物でもあった。集落の中心に建てられた例もあり、その鍵を誰が握るのかという問題が、村の内側に生まれてくる。なお伝来したばかりの時期の北部九州では、地面に掘った袋状の穴(貯蔵穴)で種籾を保管する例が多く、この形の倉が穀倉として一般的になるのは中期以降である。
24基本
弥生時代の土器のうち、(1) 穀物などの貯蔵に用いた器、(2) 煮炊きに用いた器、(3) 食物を盛りつけるための、脚台のついた器を、それぞれ何というか。
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解答:(1) 壺 (2) 甕 (3) 高杯(高坏)
解説:縄文時代の土器が煮炊き用の深い鉢を中心としていたのに対し、器種が用途ごとに分かれる。貯蔵用の器が定型として現れること自体が、蓄えることが日常になった証拠である。ほかに鉢や、盛り付け用の器を載せる台がある。
25基本
収穫した籾を脱穀・精白するのに用いられた、木製の道具を二つ答えよ。
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解答:木臼/竪杵
解説:低湿地の遺跡から、これらが水に浸かった状態で出土する。脱穀という工程が加わったこと自体が、食べるまでに手間のかかる穀物を主食に据えたことを意味する。木の道具は腐りやすく、条件のよい遺跡でしか残らないため、出土例そのものが貴重である。
26発展
深い泥の田で足が沈むのを防ぐために足につけた、板状の木製の道具を何というか。
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解答:田下駄
解説:似た道具に、刈った草を田に踏み込むのに使う大足がある。どちらも湿田での作業に欠かせない道具で、水につかった低湿地の遺跡から木のまま出土する。〈泥に沈まないための板/草を踏み込むための板〉と用途で区別する。
27分布図
図は、水稲農耕が広がった向きを模式的に示したものである。Xは水田が最も早く営まれた地域、Yは弥生時代前期の水田跡(砂沢遺跡)が見つかっている地域である。この図から読み取れる水稲農耕の広がり方の特徴を、到達した範囲にふれて簡潔に説明せよ。
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解答:九州北部に伝わった水稲農耕は、西日本から東日本へと急速に広がり、弥生時代の前期のうちには東北地方北部にまで達した。ただし北海道と南西諸島には本格的には及ばず、それぞれ別の文化が続いた。
解説:Yのある県では、前期の砂沢遺跡に続いて、中期の垂柳遺跡で水田の区画が数百枚分まとめて見つかっている。伝播の速さは、稲作が単なる作物ではなく、道具と技術の一式として受け入れられたことを示す。〈速く広がった/それでも及ばない場所があった〉の両方を押さえる。
28発展
放射性炭素年代の測定にもとづき、列島の水田稲作の開始を従来の説より約500年さかのぼるとする説が2003年に発表された。この説は、水田稲作の開始をいつ頃とするか。
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解答:前10世紀頃
解説:国立歴史民俗博物館の研究グループが、土器に付着した炭化物などを測定した結果による。従来説(前5〜4世紀)との差は大きく、教科書によって扱いが分かれる——本文は通説のままで注に新説を添えるもの、本文の年代自体を繰り上げたものがある。年代が動くと大陸との交渉の相手も変わるため、影響は列島の中だけにとどまらない。
29発展
水稲農耕の広がりが、それまでの採集と狩猟を中心とした社会をどのように変えたかを、蓄えと争いの二つの面にふれて簡潔に説明せよ。
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解答:米は長く貯蔵でき量も計れるため、余剰が特定の家や集団に集まり、貧富の差と身分の差が生まれた。また水や耕地をめぐる利害の対立から集落間の争いが起こり、集落は防御を意識した構えをとり、より大きなまとまりへと統合されていった。
解説:木の実や魚も蓄えられるが、量を計って長く持ち越せる点で米は際立つ。〈蓄えられる→誰かに集まる→差が生まれる→守る必要が出る→争う〉という連鎖で書くと、のちに扱う集落や小国の話までひと続きになる。
コラム|歴史の裏話
アルファベットは、牛から始まる
今日の設問に出た文字は、22の記号しかない。エジプトの神聖文字が数百の記号を使い分け、メソポタミアの楔形文字も数百の記号を必要としたのに比べると、桁が違う。覚えるのに何年もかかる文字は、専門の書記だけのものになる。二十あまりで足りる文字は、荷を積む商人でも使える。
おもしろいのは、それぞれの記号の名である。最初の記号アレフは「牛」、二番目のベートは「家」を意味する語から来ているとされる。牛の頭を正面から見た形、家の間取りを略した形——絵から出発した記号が、その絵の名の頭の音だけを表すようになった、という順序である。ギリシア人はこれを受け取り、アルファ・ベータと呼び方を変えて使い続けた。私たちが「アルファベット」と呼んでいる語そのものが、この最初の2字の名を並べたものである。日本語の「いろは」と同じ発想で、順番の先頭が全体の名になった。
ギリシア人が加えた工夫は、母音を書くことだった。もとの文字は子音だけを並べる。子音だけでも読めるのは、読み手がその言語を知っているからである。逆にいえば、母音字が加わってはじめて、その言語を知らない者にも音が再現できる文字になった。外へ開いた文字は、外の人間の手で完成した——交易の民が残したものの中で、いちばん遠くまで運ばれたのは、船荷ではなくこの仕組みのほうだった。(22字の一覧と各記号の名はフェニキア文字の項で確かめられる)
コラム|世界史 ↔ 日本史
軽い荷と、重い荷
今日の二つの範囲を、同じ時間軸に置いてみる。
東地中海で文字と交易の網が広がっていたころ、列島では水田が開かれはじめていた(開始年代を前10世紀とする説による。従来説をとれば、これより数百年遅れる)。どちらも「海を越えて何かが渡ってきた」話だが、渡ってきたものの性質はずいぶん違う。
文字は軽い荷である。覚えてしまえば身一つで運べ、書く道具も葦のペンとインク、書く面は陶片やパピルスで足りる。だから交易の船が寄港するたびに、少しずつ、遠くまで散っていったのだろう。いっぽう水田稲作は重い荷だ。種籾だけ持ってきても始まらない。水を引く土木の技術、木を削る石斧、穂を摘む石の刃、籾を搗く臼と杵、そして一年の作業を順序どおり進める段取りの知識——この一式がそろってはじめて動く。伝わるには、道具と人と暦がまとめて移動する必要がある。
だから広がり方も違ってくる。文字は交易路にそって点々と飛び、水田は土地をなめるように面で広がっていったとみられる。前者は港から港へ、後者は川筋から川筋へ。何が伝わるかによって、地図の塗られ方が変わる。
論述の視点:「伝播」を一語で片づけず、伝わるものの重さで分けて考える。技術・宗教・文字・作物のどれを扱う設問でも、「それは身一つで運べるか、一式でなければ動かないか」を最初に問うと、伝播の速さと範囲の違いが説明できる。
フィールドノート
「農耕社会の成立」と書いたとき、誰が消えるのか
今日から日本史は「農耕社会の成立」に入った。答案では、水田稲作が始まり、蓄えが生まれ、身分の差ができた、と書けば正解になる。だがこの書き方は、いつのまにか「列島の人々が全員、田を耕す人になった」という像を連れてくる。
歴史学者網野善彦は、中世から近世の日本を対象に、この像を疑った。史料に現れる「百姓」を農民と読み替えてきた慣習を検討し、そこに海に生きる者、山に生きる者、商いや職人の仕事で暮らす者が広く含まれていたことを論じた。土地の面積と米の量で人と富を測る記録の様式が、実際の生業の多様さを帳簿の上で見えなくしていた、という指摘である。田の面積で測られる社会は、田で測れないものを記録から落としていく。
ただし注意が要る。網野が扱ったのは文字史料の豊富な中世・近世であって、その議論をそのまま弥生時代にあてはめる根拠はない。ここで借りるのは結論ではなく、「その時代の主役をどう決めたのか」と問い返す構えのほうである。「農耕社会の成立」という単元名は、何を前に出し、何を背景に退けているのか。単元名を疑うことは、単元を理解することの一部でもある。
今日の鍵語:網野善彦/「百姓=農民」ではない/非農業民 *網野の議論には、中世の実態を過度に多様に描いたのではないかという批判もある。学説そのものが検討の対象であることも含めて借りる。
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高校歴史探究・大学受験レベル|Day 004