DAY 005
2026年8月19日(水)

四つに割れた王国と、三つに分かれた祈り

世界史:古代オリエント文明とその周辺 日本史:農耕社会の成立(弥生・小国の分立)

世界史(13問)

単元:古代オリエント文明とその周辺(オリエントの統一と四王国の分立)
1基本
前7世紀前半、エジプトまでを支配下におさめ、オリエント全域をはじめて統一した、ティグリス川流域の北メソポタミアに興った王国は何か。
解答を見る
解答:アッシリア(王国)
解説:この地は山と草原に囲まれた交通の要地で、四方から人と物が行き交う。守りの盾になる自然の壁が乏しい土地では、外へ出て相手を先に叩くことが自衛にもつながる。強力な常備軍をもつ征服国家が育った背景である。前2千年紀の前半には隊商交易の国として栄えており、軍事国家に転じたのは前9世紀以降のこと。〈開けた土地=軍事国家〉と地理から入ると忘れにくい。
2基本
この王国の最盛期の王で、首都に各地から集めさせた粘土板文書をおさめる大規模な文書庫(図書館)を築いたことで知られる人物は誰か。
解答を見る
解答:アッシュル=バニパル
解説:集められた粘土板は神話・王の年代記・占い・医術・二言語対訳の単語表にまで及ぶ。この王の宮丘から出た粘土板は、断片を含めておよそ三万点が大英博物館に収められている。メソポタミア研究の土台の多くはこの一群に負っている。〈記録を集めた王が、栄華の最後の王でもあった〉——彼の死から20年とたたずに都は焼け落ち、その火が粘土板を焼き締めて残した(今日のコラムで扱う)。注意:「最後の大王」は栄華の頂点を指す評語であって、アッシリア最後の王という意味ではない。彼のあとにも王は立っており、王国が消えるのはさらにのちである。
3基本
この王国の都が、東方と南方から攻め寄せた勢力の連合軍に攻め落とされ、王国が事実上滅んだのは前何年か。
解答を見る
解答:前612年
解説:統一の達成が前671年だから、絶頂から崩壊までおよそ60年しかない。〈広げるのに数百年、崩れるのに数十年〉という速度差が、この王国の性格を物語る。攻めたのはイラン高原の勢力とメソポタミア南部の勢力の連合で、両者はこののち別々の王国として並び立つことになる。 注意:都の陥落後も残存勢力が西方の都市(ハラン)で抵抗を続け、完全な滅亡は前609年とされる。教科書は都が落ちた前612年を滅亡の年として扱う。
4基本
この王国の滅亡後、メソポタミアに成立し、バビロンを都として栄えた王国は何か。
解答を見る
解答:新バビロニア(カルデア)
解説:カルデア人が建てたのでカルデアの名でも呼ばれる。前7世紀後半(前626年)に南メソポタミアで独立し、イラン高原の勢力と結んで北の大国を倒した。天文観測と占星術が高い水準に達したことでも知られ、その記録はのちのギリシアの学問へ流れこむ。〈新バビロニア=カルデア〉の言い換えを必ず押さえる。
5基本
バビロンを都としたこの王国の最盛期の王で、ユダ王国を滅ぼし、その住民の多くを自国の都へ連れ去ったことで知られる王は誰か。
解答を見る
解答:ネブカドネザル2世
解説:前586年にユダ王国を滅ぼし、住民を都へ移した。この移送が、故郷を失った人々のあいだで律法と記録の編集を進めさせ、のちの宗教の骨格をつくることになる。彼の死から半世紀とたたずに王国は東方から興った勢力に都を明け渡す。〈一代の栄光、二代で瓦解〉という点は、前の大国と同じ形をしている。注意:滅亡の年は学術的には前587年と前586年が並立している。教科書は前586年をとる。
6基本
イラン高原に成立し、北メソポタミアの大国を倒す一翼を担った、イラン人(アーリヤ系)がはじめて建てた本格的な王国は何か。
解答を見る
解答:メディア
解説:エクバタナ(現ハマダーン)を都とした。前550年、同じイラン人であるペルシア人に倒され、その版図と統治のしくみはそのままペルシアに引き継がれる。〈メディアの器に、ペルシアが中身を入れた〉と考えると、次の帝国が短期間で巨大化した理由が見えやすい。なお、統一王国としての版図がどこまで及んだかは、同時代史料が乏しく現在も議論が続いている。
7基本
小アジア(アナトリア半島)西部に成立し、世界で最初に金属貨幣をつくったとされる王国は何か。
解答を見る
解答:リディア
解説:内陸の金の産地に近く、エーゲ海へ抜ける交易路の出口にもあたる。海の側にはギリシア人の都市が並び、この王国と深く交わっていた。貨幣という発明が短期間でギリシア世界へ広まったのはそのためである。〈交易の十字路=貨幣が生まれた場所〉。前6世紀半ば、東方から興った勢力に敗れて滅んだ。
8史料
次は、オリエントを統一した王国が征服地で行ったことを伝える一節である(現代語訳・大意)。
この王国の王は、バビロン、クタ、アワ、ハマト、セファルワイムから人々を連れて来て、イスラエルの人々に代わってサマリアの町々に住まわせた。こうして彼らはサマリアを領有し、その町々に住みついた。 『旧約聖書』「列王記下」第17章(第24節の大意)
この一節は、征服した地域で住民の入れ替えが行われたことを示している。この王国が服属民の抵抗を抑えるためにとった、こうした政策を何というか。
解答を見る
解答:強制移住
解説:征服地の有力者や住民を遠く離れた土地へ移し、代わりに別の地域の人々を入植させる。土地との結びつきと共同体のまとまりを断つことで、反乱の芽を摘む狙いがあった。移された側は各地に散り、入れ替えられた土地では出自の異なる人々の混住が進む。地図の上では版図が広がっていくが、その内側では人の配置がたえず組み替えられていた。 注意:この記述は宗教的な立場から編まれた文献のもので、移住の規模や実施の細部は、同時代の王の碑文や行政文書と照らし合わせて検討されている。
9地図
図のAは、オリエントを統一した王国の都で、大規模な文書庫が営まれた都市である。Bは、その王国が滅んだのち小アジア西部で栄えた王国の都で、内陸の金の産地に近いことで知られる。A・Bの都市名をそれぞれ答えよ。 AB地中海黒海アラビア半島● A・B=設問の都市— 河川は模式(二大河)※海岸線は実測データ(簡略化)。河川の流路は模式
解答を見る
解答:A=ニネヴェ B=サルデス
解説:Aはティグリス川の東岸に位置し、厚い城壁と水路に守られていた。前612年の陥落後は長く土に埋もれ、19世紀の発掘でよみがえる。Bはエーゲ海から内陸へ入った盆地にあり、都市のかたわらを流れる川の砂金が富の源だと語り伝えられた。のちにペルシアが整えた幹線道路の西の起点にもなる。〈東の都=大河のほとり/西の都=金の川のほとり〉と対で覚える。
10発展
前8世紀後半に即位し、イスラエル王国を滅ぼしたと自らの碑文に記したアッシリアの王で、その名はかつてメソポタミアを統一したアッカドの建国者と同じである。この王は誰か。
解答を見る
解答:サルゴン2世
解説:イスラエル王国の都サマリアの包囲は前王シャルマネセル5世の治世に始まり、陥落の前後に即位した彼が自らの功績として碑文に刻んだ。そのため誰の事績とするかは研究上の論点になっている。
11発展
オリエントを統一した王国の軍事的な優位を支えた、馬を用いた二つの兵種を答えよ。
解答を見る
解答:戦車(戦車隊)/騎兵
解説:馬に引かせる戦車は平地での突破力に優れ、馬に直接乗る騎兵は起伏のある土地や長い追撃で力を発揮する。軍の主力は数のうえでは歩兵で、この三つに攻城兵器と工兵を加えた常備軍が、征服の速さを支えた。なお鉄器そのものは前1200年頃以降オリエント各地へ広まったもので、特定の民族が独占していたわけではない。「鉄を独占したから強かった」と書かないこと。
12発展
小アジア西部の王国が世界で最初につくったとされる金属貨幣は、自然に産する金と銀の合金でつくられていた。この貨幣を何というか。
解答を見る
解答:エレクトロン貨(琥珀金貨)
解説:川の砂から採れる合金で、金と銀の比率が一定しない。だからこそ刻印を打って重さと品位を保証する必要があり、そこに貨幣の始まりがあったとされる。純粋な金貨・銀貨が発行されるのはこの王国の後期からで、「最初の金貨」と書くと不正確になる。〈最初は合金、のちに純金・純銀〉。
13発展
オリエントをはじめて統一した王国が、統一からおよそ60年で崩れたのはなぜか。征服地の統治にどのようなしくみが欠けていたかにふれて簡潔に説明せよ。
解答を見る
解答:征服地の統治が、住民を移住させ重い貢納と税を課すという抑えつけにとどまり、服属民を支配に参加させたり、その慣習や信仰を認めて広い領域を一つにまとめたりするしくみが育たなかった。そのため各地で反乱が絶えず、支配下に置かれていた勢力が離反すると、その連合によって短期間で滅ぼされた。
解説:「軍事力で広げ、恐怖で保つ」体制は、広げているあいだは強いが、止まった瞬間に保てなくなる。のちにこの地域をふたたび統一する勢力が、被支配民の慣習や信仰を認める道を選ぶのは、この失敗を裏返した選択でもある。〈統一の方法の違い〉を軸に、二つの帝国を対比して覚えるとよい。

日本史(11問)

単元:農耕社会の成立(弥生・小国の分立)(金属器の伝来と青銅の祭り)
14基本
水稲農耕・弥生土器とならんで弥生文化を特徴づける、大陸から伝わった器具の総称は何か。
解答を見る
解答:金属器
解説:青銅と鉄が、時期を大きく隔てることなくほぼ同時に伝わった。大陸では青銅の時代が長く続いたのちに鉄の時代が来たが、列島は両方をいっぺんに受け取っている。そのため二つは競合せず、役割を分け合うことになった。〈大陸=順に/列島=同時に〉が押さえどころで、この違いが次の設問につながる。
15基本
弥生時代の北部九州や山口の遺跡からは、縄文人に比べて背が高く、面長で顔の凹凸が少ないという特徴をもつ人骨が出土する。大陸・朝鮮半島に系統をもつと考えられているこれらの人々を、在来の縄文系の人々と区別して何と呼ぶか。
解答を見る
解答:渡来系弥生人
解説:山口県の土井ヶ浜遺跡では約300体の人骨がまとまって見つかり、この特徴を示す例が多い。在来の縄文系の人々と混じり合いながら各地へ広がったと考えられ、現代日本人の形質はこの二つの流れの重なりとして説明されることが多い。〈渡来系=高身長・面長/縄文系=低身長・彫りが深い〉で対比する。渡来した人の数や移動の規模については、なお議論が続いている。
16基本
地下の埋葬施設の上に大きな平石をのせた形の墓で、同じ形式が朝鮮半島南部に濃く分布することから、大陸との関係を示すとされる北部九州の墓を何というか。
解答を見る
解答:支石墓しせきぼ
解説:玄界灘に面した一帯に集中し、石の下には甕を用いた棺や石の棺、木の棺などが納められる。同じ形式が海の向こうに広く分布することから、稲作とともに人と葬りかたが渡ってきた証拠とされる。〈墓の形は簡単には変わらない=人の移動の手がかり〉。土器や道具より保守的な部分ほど、由来をよく語る。
17基本
弥生時代の後期に広まり、穂首だけを摘む収穫法にかわって、株もとから刈り取る方法をもたらした鉄製の農具は何か。
解答を見る
解答:鉄鎌
解説:穂首を摘む方法は実った穂を選べる利点があるが、手間がかかる。株ごと刈る方法は速く、藁もまとめて手に入る。品種がそろい、田が広がるにつれて後者が合理的になった。〈選んで摘む→まとめて刈る〉の転換は、収穫量が増え、作業が組織化されたことのしるしである。鉄が入ったから変わった、と道具から社会を読む型の典型。
18分布図
図のア〜ウは、弥生時代に祭りの道具として用いられた銅製品の、おもな分布圏を模式的に示したものである。アの圏でおもに用いられたのは釣鐘の形をしたもの(銅鐸)である。イ・ウの圏でおもに用いられた銅製品の名を、それぞれ答えよ。 アイウ日本海太平洋ア・イ・ウ=分布圏(模式)境界は確定的ではない※海岸線は実測データ(簡略化)。分布圏は模式で、重なりあう地域がある
解答を見る
解答:イ=平形銅剣 ウ=銅矛どうほこ・銅戈どうか
解説:イは瀬戸内海の中部、とくに愛媛・香川を中心とする圏で、刃が広く平たい形に変わっている。ウは玄界灘に面した一帯で、海の向こうから入った武器の形が、そのまま祭りの道具になった。アの圏は近畿を中心に、東は伊勢・美濃・尾張、北は若狭・越前へも及ぶ。〈近畿=鐘/瀬戸内=広い剣/北部九州=矛と戈〉と、地形とセットで覚える。三つの圏は接するあたりで重なり、境界は固定的ではない。
19地図
図のAは、1984年に358本の銅剣が整然と並べられた状態で出土し、翌年には約7m離れた別の埋納坑からも大量の銅製品が見つかった、島根県の丘陵斜面の遺跡である。この遺跡の名を答えよ。 A日本海瀬戸内海● A=設問の遺跡※海岸線は実測データ(簡略化)
解答を見る
解答:荒神谷こうじんだに遺跡
解説:出土した銅剣の数は、それまでに全国で見つかっていた総数を上回った。翌1985年には、同じ丘の別の坑から銅鐸6個と銅矛どうほこ16本が出土している。なぜこれほどの量が一か所に埋められたのかは決着していない——祭りのあとの埋納、危機に際しての退蔵、祭りそのものの終わりを示す儀礼など、説が並ぶ。〈出雲に大量、しかも別々の圏の品が同居〉が謎の核心である。出土品は一括して国宝に指定され、島根県立古代出雲歴史博物館が保管している(同館は耐震改修のため2026年9月(予定)まで休館中)。遺跡そのものは史跡公園として整備され、隣接する荒神谷こうじんだに博物館で発見のいきさつをたどることができる。
20発展
1996年、Aの遺跡からおよそ3km離れた地点で、39個の釣鐘形の銅製品が一括して出土した。一か所からの出土数として全国最多となったこの遺跡は何か。
解答を見る
解答:加茂岩倉かもいわくら遺跡
解説:農道の工事中に偶然見つかった。大きなものの中に小さなものを入れた「入れ子」の状態で埋められた組が12組確認され、同じ型でつくられた関係にあるものが15組26個明らかになっている。近接する二つの遺跡から大量の青銅が出たことで、出雲が祭りの一大拠点だったことがはっきりした。〈358本の剣と39個の鐘が、数キロの範囲に眠っていた〉。現地には遺跡のガイダンス施設がある。
21発展
弥生時代の遺跡から出土する、青銅器が輸入品にとどまらず国内でもつくられていたことを直接に示す、石でつくられた道具は何か。
解答を見る
解答:鋳型(石製鋳型)
解説:北部九州の集落から多数見つかっている。輸入した品を写して国内でつくるようになると、形は次第に列島独自の方向へ動きはじめる。大型化して薄くなり、実用から離れていくのはその過程である。〈輸入→模倣→独自化〉という道筋は技術の伝播に共通し、のちの時代の鏡や仏像にも当てはまる。
22発展
弥生時代の土器の表面や断面からは、成形のときに粘土へ紛れこんだ穀物の粒に由来する資料が見つかることがあり、その地で稲作が行われていた証拠として重視される。この資料を何というか。
解答を見る
解答:籾もみの圧痕あっこん(籾もみ圧痕あっこん)
解説:焼成の際に籾もみそのものは燃え去り、あとに空間だけが残る。近年はここにシリコーンを流し込んで型を取り、電子顕微鏡で種を見分ける手法が広く用いられ、栽培植物の種類と時期の見直しが進んでいる。炭になった米(炭化米)とあわせて、稲作の広がりを地点ごとに確かめる手がかりになる。〈残ったのは籾もみではなく、籾もみのあった空間〉。
23発展
弥生時代に伝わった二種の金属が、それぞれ異なる用途に用いられたのはなぜか。材質の性質と入手のしやすさにふれて簡潔に説明せよ。
解答を見る
解答:青銅は鋳型に流し込んで複雑な形をつくりやすく、磨くと金色に輝いて人目を引くが、鉄に比べて軟らかく、刃物や農具には向かない。また原料が限られて貴重だったため、集団の力を示し祭りを飾る道具として用いられた。いっぽう鉄は硬く鋭い刃を長く保てるので、工具・農具・武器として日常の生産と戦いに使われた。
解説:「役に立たないから祭りに回した」のではなく、「見せる力に優れていたから祭りに用いた」と考えるほうが実態に近い。実用と儀礼は対立するものではなく、どちらも集団を成り立たせる働きである。共通テストでは二つの対応を入れ替えた誤文が定番なので、逆にしないこと。
24発展
祭りの道具の分布が、今日の図のように大きく三つの圏に分かれていることから、当時の社会についてどのようなことが読み取れるか。簡潔に説明せよ。
解答を見る
解答:同じ形の祭器を用いる範囲ごとに地域的なまとまりが形成されており、共通の祭りを通じて複数の集落が結びついていたと考えられる。それぞれの圏は、のちの小国やその連合につながる政治的・社会的な統合の単位であったとみられる。
解説:祭りを共にする範囲は、争いのときに味方となる範囲でもある。青銅の祭器は、その範囲を目に見える形で示す装置だったといえる。ただし分布は重なりあい、境界は時期によっても動く。「三つの国があった」と読み替えないこと。出雲のように、別々の圏の品がまとまって出土する場所もある。

コラム|歴史の裏話

都が焼けた夜に、書物は焼き固められた

今日の設問に出た文書庫は、19世紀なかばの発掘で姿を現した。出てきたのは紙でも羊皮紙でもなく、粘土の板である。神話、王の年代記、占いの手引き、薬の処方、二つの言語を並べた単語表——王が各地の神殿や学者の家から集めさせたものが、部屋いっぱいに積まれていた。

おもしろいのは、それが残った理由のほうである。粘土板はふつう天日で乾かすだけのもので、水にぬらせば崩れてしまう。ところが前612年、都は攻め落とされて火に包まれた。建物を焼いた熱が粘土板を焼き締め、素焼きの器と同じ状態にしたのである。王国を滅ぼした火が、王国の記録を保存した。近年の調査では、粘土板は棚から落ちたまま埋もれたのではなく、いったん選り分けられたうえで打ち砕かれ、宮殿のまわりに投げ捨てられたと考えられている。それでも、焼けたことが残るための条件だったことは変わらない。

現在この一群は大英博物館に収められ、断片を含めておよそ三万点を数える。大洪水を語る古い叙事詩の一節が見つかったのもこの中からで、1872年のロンドンでその解読が公表されたときには大きな反響を呼んだと伝えられる。滅びの音を立てて崩れた都のかけらが、二千五百年ののちに、人類最古の物語の一つを差し出したことになる。

コラム|世界史 ↔ 日本史

一つにする金属、分けあう金属

今日の二つの範囲を、同じ時間軸に置いてみる。

前800 前600 前400 前200 弥生時代 弥生開始は両説並立(歴博説 前10世紀〜従来説 前5〜4世紀) イスラエル王国の滅亡 住民の移住(前722年) オリエントの統一 エジプト征服(前671年) ニネヴェの陥落 アッシリアの滅亡(前612年) ユダ王国の滅亡 バビロン捕囚(前586年) 青銅器・鉄器が伝わる(弥生前期末〜中期初め) 青銅祭器の埋納(弥生中期後半〜後期) ニネヴェの陥落から二百五十年あまりのち、列島に金属器 ※列島側の点は歴博説の実年代による位置。従来説では二百年ほど下る 世界史(オリエント) 日本列島(弥生前期〜中期) ※横軸は実時間スケール。年代は教科書の慣行値で、学術的な推定値とは差がある

重ならない。オリエントで一つの帝国が生まれ、崩れ、四つに分かれていたころ、列島にはまだ金属が届いていない。青銅と鉄が海を渡ってくるのは、ニネヴェが焼け落ちてから二百五十年あまりのちのことである(列島側の実年代は、弥生時代の開始をいつとするかによって数百年動く)。

それでも比べる意味はある。同じ金属が、二つの社会でまったく違う仕事をしたからだ。オリエントでは、鉄は軍隊の装備であり、征服の手段であり、ばらばらだった地域を一つにまとめるための道具だった。列島では、鉄は森を伐り田を拓く道具になり、青銅は祭りの道具になった。そして青銅の祭器は、地域ごとに形が分かれた——鐘、広い剣、矛と戈。

つまり、一方では金属が境界を消すために使われ、他方では境界を示すために使われた。同じ素材が、社会の作りによって正反対の役目を負う。技術は中立で、意味は受け取る側がつける。

論述の視点:技術の伝播を問われたら、「何が伝わったか」で止めずに「受け取った社会がそれを何に使ったか」まで書く。鉄器の伝来を書くときは、征服の道具になった社会と、開墾の道具になった社会を対比させると、暗記の羅列が一本の議論になる。

フィールドノート

お金が生まれた場所は、市場ではなかったかもしれない

今日「世界最初の金属貨幣」を覚えた。だがここで、貨幣=買い物の道具という現代の常識をいったん外してみたい。

経済学者のカール・ポランニーは、人と物のやりとりの型を大きく三つに分けた。贈り、返す互酬。中心にいったん集め、配り直す再分配。値をつけて取り引きする交換。そして、値段で動く市場が社会全体を覆うのはきわめて新しい事態であり、それ以前の経済は親族・儀礼・政治のなかに埋め込まれていた、と論じた(埋め込みの議論は『大転換』1944年、三つの型を整理したのは1957年の論考)。

この目で今日の範囲を見直す。最初期の金属貨幣は、まとまった出土が神殿の基壇からも見つかっている。額面は1スタテルの48分の1、0.3グラムに満たない極小のものまであり、小さな支払いに使えなかったわけではないらしい。それでも、重さも品位も一定しない合金のかけらが額面どおりに通用するには、誰かが価値を保証していなければならない。だとすれば貨幣は、市場の便利から自然に湧いたというより、王や神殿が価値を保証する場——貢納、報酬、奉献のやりとり——のそばで形になったのかもしれない。市場が貨幣を生んだのではなく、貨幣が市場を育てたという順序である。

青銅の祭器は、経済的には無駄に見える。銅も錫も貴重で、しかも刃は鈍く、実用にならない。だが再分配と互酬の網の目という視点を入れると、祭器はその網の範囲を目に見える形にした装置と読める。出雲で358本の剣と39個の鐘が地中に納められたのは、蓄えを惜しみなく手放してみせる行いとしても読める。使わないことに意味がある富、というものが存在する。

今日の鍵語:カール・ポランニー/互酬・再分配・交換/経済の埋め込み *三つの型は理念的な区分で、実際の社会では混ざりあう。ポランニーの議論は近代の市場社会がどう成立したかを問うためのもので、古代オリエントや弥生の実証研究をそのまま代弁するものではない。借りているのは結論ではなく問いの立て方である。

この号をシェア

友達を誘う

Instagram のボタンはストーリーズを開きます(アプリのある端末)。文面は自動でコピーされるので、リンクスタンプやテキストに貼り付けてご利用ください。

高校歴史探究・大学受験レベル|Day 005