世界史(13問)
単元:古代オリエント文明とその周辺(オリエントの統一とアケメネス朝)
1基本
前550年、イラン高原のメディア王国を倒してペルシア人の国を興し、さらにリディア・新バビロニアを次々に征服した王は誰か。
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解答:キュロス2世
解説:メディアの都エクバタナを落とし、その版図を受け継いだ。ついで小アジアのリディアを、さらにバビロンを手に入れる。倒した相手の制度を壊さずに使うやり方が、この王朝の性格を最初から決めていたのだろう。〈メディアの器に、中身を入れた王〉として押さえる。
2基本
この王が創始し、オリエントの再統一をなしとげたペルシア人の王朝を何というか。
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解答:アケメネス朝(アケメネス朝ペルシア)
解説:王家が伝説上の祖と仰いだ人物の名にちなむ。前550年から前330年まで、およそ220年つづいた。先にオリエントを統一したアッシリアが、統一の達成から60年ほどで崩れたのに対し、こちらは3倍以上もった。〈統一の速さではなく、保った長さで比べる〉と両者の違いが見えやすい。
3基本
前525年にエジプトを征服し、オリエント全域の統一を実現した王は誰か。
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解答:カンビュセス2世
解説:父の代に小アジアからメソポタミアまでが版図に入り、残っていたのがナイルの国だった。この征服によって、アッシリアの崩壊からおよそ90年ぶりに、オリエントはふたたび一つの支配のもとに置かれる。〈父が西、子が南〉と方角で分けて覚える。帰国の途上で急死し、王位をめぐる混乱が起こった。
4基本
前522年に即位し、東はインダス川流域から西はエーゲ海北岸におよぶ最大領域を実現した王は誰か。
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解答:ダレイオス1世
解説:統治のしくみを整えたのもこの王で、全国を州に分け、幹線道路を敷き、金貨を発行し、度量衡をそろえた。〈広げた王であり、束ねた王でもある〉。自らの即位のいきさつを三つの言語で断崖に刻ませており、その碑文はのちに楔形文字を解く鍵になった。
5基本
この王が全国を約20の州に分けたとき、それぞれの州に置かれた知事(総督)を何というか。
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解答:サトラップ
解説:日本語では知事・総督と訳される。徴税と軍の指揮、司法をゆだねられ、州の中では大きな力をもった。ただし軍の一部と情報の経路は王が直接握っていたとされ、州がそのまま自立してしまわないように組まれていた。〈任せる、しかし見張る〉。ギリシア語形サトラペスを経て日本語の表記になった。
6基本
各州に置かれた知事を監視するため、王が直接派遣して州内を巡回させた監察官は、何と呼ばれたか。
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解答:「王の目」「王の耳」
解説:名のとおり、王の代わりに見て、聞く役である。州をまわり、報告を王へ直接あげた。任せることと疑うことを同時に制度にしたところに、この帝国の統治の要がある。〈目と耳が届くから、手を放せる〉。注意:呼称はおもにギリシア側の記述に見えるもので、二つが別の役職だったのか、同じものの言い換えなのかは確定していない。
7基本
都から小アジア西部のサルデスにいたる、公文書の伝達と軍隊の移動のために整えられた幹線道路を何というか。
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解答:王の道
解説:ギリシアの歴史家が記した距離から換算すると、全長はおよそ2400kmになる。要所に宿駅が置かれ、徒歩なら90日かかる道だと同じ歴史家は書いている。もっとも、この経路はアッシリアの時代から使われてきた道筋を踏まえたものとみられており、この王朝が一からつくったわけではない。〈道が届く範囲が、命令の届く範囲になる〉。
8地図
図のAは、この王朝の行政の中心となり、幹線道路の東の起点にもなった都市である。都市名を答えよ。
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解答:スサ
解説:二大河の東、ザグロス山脈のふもとの平野にある古い都で、エラムの中心地だった時代からの歴史をもつ。西のサルデスまで道が延び、東のイラン高原へも通じる。位置そのものが「東と西の継ぎ目」である。注意:「都はスサ」と一言で言うのは簡略化で、ペルセポリス・エクバタナ・バビロンなども並行して都として機能した(複都制)。用途と季節によって王が移動した。
9史料
次は、ギリシアの歴史家がこの王朝の伝令のしくみについて記した一節である(現代語訳・大意)。
この世に生きるもののうち、この使者たちより速く進むものはない。旅程の日数と同じ数だけの馬と人が、道すじに配されているからである。雪も雨も暑さも夜の闇も、彼らが定められた行程をできるかぎりの速さで走り通すのを妨げない。
『歴史』第8巻98節(大意)
この一節が伝える、要所に置かれた中継地点ごとに人と馬を交替させ、公文書を送り継いだしくみを何というか。
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解答:駅伝制
解説:一人が全行程を走るのではなく、区間ごとに新しい人馬へ引き継ぐ。速さの秘密は個人の脚力ではなく、しくみのほうにある。この一節を書いたのはヘロドトスで、『歴史』はペルシア戦争を主題とする。〈駅伝=リレー、道=コース〉と競技になぞらえると忘れにくい。同じ発想のしくみは、のちに元朝のジャムチや江戸時代の宿駅にも見られる。
10発展
この王朝が発行し、領内の広い範囲で通用した金貨を何というか。
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解答:ダレイコス(ダレイコス金貨)
解説:純度の高い金貨で、銀貨(シグロス)と組み合わせて用いられた。金貨を打つ権限は王が握り、州の知事に許されたのは銀貨までだったと伝えられる。誰が貨幣を出せるかは、そのまま権力の所在を示す。〈金は王、銀は州〉。度量衡も全国でそろえられ、徴税と交易の基準が統一された。
11発展
バビロンを占領して新バビロニアを滅ぼしたペルシアの王が、遠くへ移されていた人々の帰郷を認めたのは前何年か。
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解答:前538年
解説:移された人々はおよそ半世紀ぶりに故郷へ戻り、神殿の再建に取りかかる。〈帰してやることが、統治になる〉。注意:教科書は前538年をとるが、バビロン入城そのものは学術的には前539年10月とされる。
12発展
前330年、マケドニアの王による東方遠征に敗れてこの王朝が滅んだとき、最後の王であった人物は誰か。
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解答:ダレイオス3世
解説:イッソス、ついでアルベラ(ガウガメラ)と二度の会戦に敗れ、東へ逃れる途中で臣下に殺された。220年つづいた帝国は王の死とともに終わる。ただし州に分けて治めるしくみは征服者に引き継がれ、ヘレニズム諸国へ、さらにのちのイランの王朝へと形を変えて残った。〈滅びたのは王家で、しくみは残った〉。
13発展
先にオリエントを統一したアッシリアが短命に終わったのに対し、この王朝が二百年をこえて広大な領域を保つことができたのはなぜか。被支配民族に対する政策の面から簡潔に説明せよ。
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解答(例):アッシリアが服属民を遠隔地へ移住させ、重い貢納を課して力で抑えつけたのに対し、この王朝は貢納と軍役を課す一方で各民族の宗教・言語・慣習を認め、現地の有力者を通じて治めたため、反発を抑えて長く支配を保つことができた。
解説:ここでいう寛容は、人道的な配慮というより統治にかかる費用の計算だと見るほうが理解しやすい。反乱を鎮めるには軍と金がいる。認めるほうが安ければ認める。ただし裏切りには容赦がなく、反旗をひるがえした都市は徹底して罰せられた。〈飴と鞭ではなく、安いほうを選ぶ〉。論述では「強制的な移住/服属民の慣習の容認」の対比が骨格になる。
日本史(12問)
単元:農耕社会の成立(弥生・小国の分立)(集落と社会の変化)
14基本
弥生時代の集落には、周囲に深い溝を掘りめぐらせたものが現れる。福岡県の板付遺跡や大阪府の池上曽根遺跡がその例である。このような集落を何というか。
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解答:環濠集落
解説:溝は深いところで幅数メートル、深さ二メートルをこえ、掘り上げた土を積んで土塁としたと考えられる例もある。内側には住居と高床の倉が並ぶ。墓域は集落の外に別に設けられることが多いが、吉野ヶ里のように濠の内側に取りこむ例もある。守るべきものができた社会が、はじめて壁をもつ。〈溝の内と外=守るものと、守られないもの〉。
15基本
弥生時代の中期後半から後期にかけて、瀬戸内海の沿岸や近畿地方などで、平野を見おろす山頂や丘陵の上に営まれた集落が現れる。これを何というか。
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解答:高地性集落
解説:水田から遠く、水をくむのにも不便な場所である。山頂だけでなく斜面に営まれたものもある。役割については、見張り場・逃げ城のほか、交易の場、祭りの場とする説などがあり、まだ一つに定まっていない。〈生産に不利な立地は、別の目的を疑う〉。
16地図
図のA・Bは、いずれも弥生時代を代表する大規模な集落遺跡である。Aは佐賀県の丘陵にあり、総延長二キロメートルをこえる濠が集落全体を囲み、その内側にさらに濠でかこまれた区画をもつ。物見櫓とみられる建物の柱跡も見つかった。Bは奈良盆地の中央にあり、幾重にもめぐる濠と、楼閣を描いた土器の出土で知られる。A・Bの遺跡名をそれぞれ答えよ。
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解答:A=吉野ヶ里遺跡 B=唐古・鍵遺跡
解説:Aは
吉野ヶ里歴史公園として整備され、墓域からは、頭部を欠くものや、腹部に十本もの矢を打ちこまれたものなど、ただならぬ人骨が見つかっている(ただし公式の解説は、これほど正確に矢を集中させるのは難しいとして、戦闘の犠牲者と断じることには慎重である)。Bは平地の集落で、出土した土器に描かれた絵をもとに楼閣が復元された。〈九州の丘の村と、奈良盆地の平地の村〉と地形で対にして覚える。
17基本
北部九州を中心に、大形の土器を二つ合わせて遺体を納めた墓が多数つくられた。この墓を何というか。
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解答:甕棺墓
解説:大人用には埋葬のために焼かれた大形の専用の甕が使われ、高さ一メートルを超えるものもある。二つ合わせれば全長二メートル近くになる。いっぽう小型のものには日用の土器を転用した例もある。埋葬専用の器をつくる手間をかけられる余力があったことを示す。〈北部九州=土器の棺/他地域=木の棺・石の棺〉と地域で分ける。木棺墓・箱式石棺墓も各地に見られる。
18基本
弥生時代の後期になると、山陰・吉備・近畿でそれぞれ異なる形の大きな墓が、各地に営まれるようになる。のちの古墳につながるこれらの墓を総称して何というか。
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解答:墳丘墓
解説:盛り土をもつ墓そのものは弥生前期の近畿にすでに現れており、後期に変わったのは規模と地域色のほうである。山陰・吉備・近畿がそれぞれ異なる形をとり、その違いは次の問の分布図で確かめられる。〈形が分かれる=まだ一つにまとまっていない〉。形が全国で似通うのは、古墳時代に入ってからである。
19分布図
図のア・イは、弥生時代の墓のうち、地域ごとに特徴のある二つの形式のおもな分布を模式的に示したものである。アは山陰(出雲・伯耆)を中心とする圏で、他の地域に例のない平面形をもつ大型の墓が営まれた。イは近畿地方に弥生前期に現れ、東海・関東地方にも広まった圏で、一辺十メートル前後の小型の墓が数多くつくられた。ア・イの墓の名をそれぞれ答えよ。
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解答:ア=四隅突出型墳丘墓 イ=方形周溝墓
解説:アは方形の盛り土の四隅がヒトデのように外へ張り出す形で、山陰のものは斜面に石を貼る(貼石)。出雲・伯耆を中心に、日本海を通じて北陸へも伝わったが、北陸に伝わったものは貼石を欠く。イは低い四角の盛り土のまわりに溝をめぐらせたもので、弥生中期には東海・関東地方にも広まった。規模の大きさで抜きん出る山陰と、数の多さで広がる近畿とでは、社会の作りが違って見える。〈山陰は突き出る、近畿は囲う〉。
20発展
香川県三豊市の荘内半島、瀬戸内海を見おろす標高およそ350mの山頂に営まれた、弥生時代中期の集落遺跡は何か。
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解答:紫雲出山遺跡
解説:ふもとの水田から毎日のぼるには高すぎる場所にあり、大量の石鏃が出土した。かつてはこの石鏃から軍事的・防御的な集落と評価されてきたが、石包丁や石斧も多く出ることから、近年は瀬戸内の広域な交流の窓口だったとする見方も示されており、性格は一つに定まっていない。〈立地と出土品はセットで覚え、解釈は保留する〉。
21発展
岡山県倉敷市にある、円形の盛り土の両側に突出部をもつ、弥生時代後期最大級の墓は何か。
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解答:楯築墳丘墓(楯築遺跡)
解説:円丘の直径はおよそ50m、突出部を含めた全長は80mをこえ、当時の列島で群を抜く規模である。頂には立石が並び、特殊器台・特殊壺と呼ばれる大型の焼き物が置かれていた。この器台は、のちに古墳へ立てられる埴輪の源流にあたるとされる。〈吉備の大きな墓が、古墳時代の入口になる〉。
22発展
弥生時代の墓からは、石鏃が刺さったままの人骨や、頭部を欠く人骨が出土することがある。こうした戦いによる傷跡をとどめる人骨を何というか。
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解答:受傷人骨(殺傷人骨)
解説:縄文時代にもこの種の傷を負った人骨は十数例が知られているが、弥生時代に比べるとはっきり少ない。狩りの道具であった弓矢が人に向けられる例が増えるのは弥生からで、西日本を中心に石鏃も大型化し、殺傷力を高める方向へ変わっていく。道具は同じでも、向けられる先が変わった。〈弓矢は獣から人へ〉。
23発展
北部九州には、中国製の鏡やガラス製品、青銅の武器を多数おさめた弥生中期の有力者の墓がある。福岡県春日市にあるものと、福岡県糸島市にあるものの名を、それぞれ答えよ。
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解答:(順に)須玖岡本遺跡・三雲南小路遺跡
解説:前者はのちの奴国、後者はのちの伊都国の中心にあたる地で、いずれも王墓とみられている。前漢の鏡が三十面をこえて納められた例もあり、大陸との交渉を独占できた人物がいたことを示す。ふつうの人が土に葬られるかたわらで、鏡を三十枚抱いて葬られる人がいる。〈鏡の数=大陸との交渉を握った証し〉。
24発展
弥生時代の集落には、周囲を深い溝で囲んだものや、平野を見おろす高所に営まれたものがある。これらの集落のあり方は、当時の社会について何を示すか、簡潔に説明せよ。
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解答(例):水稲農耕が広がるなかで、土地・水・収穫物などをめぐる集落どうしの争いが激しくなり、防御の必要が生じていたこと(軍事的な緊張の高まり)を示す。
解説:どちらも、暮らしの便利さを犠牲にして守りを取った選択である。同じ時期の人骨に戦いの傷が増え、石鏃が大型化することも、この読み方を支える。なお、集落の形から読み取るのはここまでで、墓から何が読み取れるかは次の問で考える。集落と墓を混ぜずに答えるのが論述の型である。
25発展
弥生時代の後期になると、墓のあり方に大きな変化が現れる。葬られる場所と副葬品の二つの面から、この変化が何を示すかを簡潔に説明せよ。
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解答(例):それまで共同の墓地に同じように葬られていたのに対し、特定の人物のためだけに大規模な墓が別に築かれるようになり、副葬品の内容にも大きな差が生じた。ここから、集落のなかに身分の差が生まれ、各地に有力者(首長)が現れていたことが読み取れる。
解説:縄文時代の墓には、こうした格差がほとんど見られない。差が現れるのは、余りを蓄え、その配分を握る者が生まれてからである。〈蓄えられるものができると、分けかたが偏る〉。論述では「共同の墓地から特定個人の墓へ」「副葬品の格差」の二点を軸に組み立てる。
コラム|歴史の裏話
郵便配達人の信条になった、二千五百年前の一文
今日の史料に出てきた「雪も雨も暑さも夜の闇も」の一節には、思いがけない後日談がある。
ニューヨークのマンハッタン、八番街に面して建つジェームズ・A・ファーリー郵便局の正面には、長い列柱が並んでいる。その上の壁に、この一節をもとにした英文が刻まれている。刻ませたのは、この建物を設計した建築事務所だという(碑文はヘロドトスの逐語訳ではない)。
おもしろいのは、これが公式の標語ではないことである。アメリカ合衆国郵便公社自身が、自分たちに公式のモットーはないと明言したうえで、その心意気はありがたい、と書き添えている。それでもこの文句は、配達人を語る言葉として世界に広まった。
もとの一節が語っていたのは、配達人の根性ではなくしくみのほうだった。一人が全部を走るのではなく、区間ごとに交替する。だからこそ雨でも夜でも止まらない。制度の説明が、個人の徳の話として読み替えられていったところに、この一文の長い旅がある。二千五百年前の帝国が命令を届けるために組んだ工夫が、いまも別の意味を背負って壁に立っている。
コラム|世界史 ↔ 日本史
つなぐための線、区切るための線
今日の二つの範囲を、同じ時間軸に置いてみる。
重ならないのは時間ではなく、社会のかたちのほうである。アケメネス朝がオリエントを一つにまとめていたころ、列島にはまだ「国」と呼べるまとまりがない。両者のあいだには数百年の隔たりがある(列島側の実年代は、弥生時代の開始をいつとするかによってさらに動く)。
それでも並べる意味はある。どちらの社会も、この時期に地面に線を引いたからだ。ただし引き方が正反対である。帝国が引いたのは道という線で、州と州、都と辺境をつなぐためのものだった。線が長いほど支配は遠くまで届く。列島の村が引いたのは濠という線で、内と外を隔てるためのものだった。線が深いほど「われわれ」は守られる。
つまり、一方の線は越えるためにあり、他方の線は越えさせないためにある。規模の差だと言ってしまえばそれまでだが、線の向きの違いは、その社会が何を最大の課題としていたかを映しているようにも見える。届かないことに困る社会と、来られることに困る社会だったのだろう。
論述の視点:国家形成を問われたら、「まとめる力」だけでなく「分かれたままでいる力」も書く。統合はいつも自明の進路ではなく、統合しないことを選び続けた社会も長く存在した。どちらの向きの力が勝ったのかを説明できると、答案が一段深くなる。
フィールドノート
争いは、まとまりへの道とはかぎらない
今日は「濠をめぐらせた村」と「見張りの村」を覚えた。教科書はこれを、争い→統合→小国の分立→やがて大きなまとまりへ、という一本の道の入口として並べる。ここでいったん、その道筋を疑ってみたい。
人類学者のピエール・クラストルは、南アメリカ低地の社会を観察して、こう論じたのだという。そこでの戦争は、国家がまだ生まれていない未熟さの現れでも、統合へ向かう前段階でもない。むしろ、それぞれの集団が分かれたままでいるための装置ではないか、と。絶えず隣と敵対していれば、どの集団も他に飲み込まれず、内側に命令する者を生むこともない。国家を知らないのではなく国家の出現を拒みつづける社会、という意味で、彼はこれを『国家に抗する社会』(一九七四年)と呼んだ。ただし戦争そのものを論じたのは、死の直前の論考『暴力の考古学——未開社会における戦争』(一九七七年)のほうである。
今日の鍵語:ピエール・クラストル/『国家に抗する社会』・『暴力の考古学』/戦争と分散 *クラストルの議論は1970年代に南アメリカ低地の社会をもとに立てられたもので、他の時代・地域にそのままあてはめられるものではない。
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