世界史(12問)
単元:南アジアの古代文明(インダス文明)
1基本
前2600年ごろ、南アジアの大河の流域に成立し、整然とした街路をもつ都市を各地に築いた文明を何というか。
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解答:インダス文明
解説:インダス川とその支流の流域に広がり、栄えた範囲は東西およそ1500kmにおよぶ。東西の広がりは同じころのエジプトやメソポタミアの文明よりも広い。担い手の民族系統は分かっていない。注意:都市が衰えはじめる時期を前1900年ごろとする研究もあるが、教科書は前1800年ごろをとる。
2基本
南アジアの農業を大きく左右してきた、半年ごとに向きを変えて吹く風を何というか。
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解答:季節風(モンスーン)
解説:夏は海から吹きこんで雨をもたらし、冬は大陸から吹き出して乾いた季節をつくる。ただしこの文明の下流域は雨が乏しく、農業は川の水に頼っていた(東側の地域では雨に頼る農耕が主だったとする研究もある)。この風はのちに、アラビア海を横切る帆船の航路にも利用される。
3地図
図のA・Bは、この文明を代表する二つの都市の遺跡である。Aは大河の支流の岸にあり、パンジャーブ地方に位置する。Bはその下流のシンド地方にあり、盛り土の上の区画と碁盤の目状の市街地からなる。A・Bの遺跡名をそれぞれ答えよ。
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解答:A=ハラッパー B=モエンジョ=ダーロ
解説:本格的な発掘は1921年にA、その翌年にBで始まった。Bは
ユネスコの世界遺産に登録されているが、240haのうち発掘されたのは3分の1ほどにすぎない。上流のA、下流のBと、川の流れの順で覚える。なおAが臨むのは支流の旧流路で、いまは干上がっている。
4基本
これらの都市は、住居から下水溝にいたるまで、長さ・幅・厚さの比をおよそ4対2対1にそろえた建材を積んで築かれている。この文明の都市が大量に用いたこの建材を何というか。
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解答:焼煉瓦(焼成煉瓦)
解説:メソポタミアの都市が日干し煉瓦を主に用いたのに対し、こちらは窯で焼いたものを大量に使う。家屋用と基壇・市壁用とで大きさは違うが比は同じで、遠く離れた都市どうしでも寸法が近い。規格が共通するということは、どこかで基準が共有されていたことになる。注意:すべてが焼煉瓦というわけではなく、盛り土や城壁の芯には日干し煉瓦も使われている。
5基本
この文明の印章などに刻まれた、いまだ解読されていない文字を何というか。
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解答:インダス文字
解説:知られている記号は400種ほどとされるが、その多くは印章に数文字ずつ刻まれた短いもので、長い文章がない。しかも二言語を並べた対訳の資料が見つかっていないため、エジプトの神聖文字におけるロゼッタ=ストーンにあたるものがない。注意:記号の数え方も、どの言語を書き表したのかも定まっていない。
6基本
この文明では、世界でも早い時期に栽培された繊維作物が織物に用いられ、のちに南アジアの特産品として西方へも運ばれるようになる。この作物は何か。
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解答:綿(木綿・綿花)
解説:青銅器・彩文土器とならぶこの文明の産物で、遺跡からは綿布の痕跡が見つかっている。いっぽう鉄器はまだ用いられていない。南アジアに鉄器が広まるのは前1000年ごろで、それはガンジス川流域の開拓と結びつく——つまり次回の話になる。注意:鉄器が森を切り開いたとする整理には異論もあり、初期の鉄器は小型の斧や鍬が中心で、開墾は火入れや木製の犂でも行えたとする研究がある。
7基本
この文明の印章と同じ形式のものが、西アジアの都市遺跡からも出土している。海路などを通じて交易していたと考えられる、この西アジアの文明は何か。
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解答:メソポタミア文明
解説:運ばれたのは銅・木材・象牙・紅玉髄(カーネリアン)の玉などとみられる。メソポタミア側の文書に見える遠方の交易地「メルッハ」をインダス地方にあてる見方もあるが、確定はしていない。印章は荷を縛った縄に粘土を当てて押し、封として使われた。ペルシア湾ぞいの島にも中継地があったと考えられている。
8発展
Bの都市は、盛り土の上に築かれた区画と、その東に広がる市街地とからなる。大浴場や穀物倉とみられる大規模な建物が集まる、この盛り土の上の区画を何と呼ぶか。
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解答:城塞(城塞部)
解説:西に城塞、東に市街地という配置は、この文明の主要な都市に共通する。大浴場は焼煉瓦をすきまなく積み、瀝青(天然アスファルト)で水もれを止めた大きな水槽である。注意:「城塞」は近代の発掘者が与えた呼び名で、軍事施設だったと確かめられているわけではない。祭祀や公共の場だったとする見方もある。
9発展
グジャラート地方にある、船着き場とみられる大規模な水槽状の遺構をもち、海の交易の拠点とされるこの文明の遺跡は何か。
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解答:ロータル
解説:煉瓦で築かれた長方形の大きな水槽が見つかっており、潮の干満を利用した船渠(ドック)とする説が知られる。ビーズ工房の跡も出ており、加工品を積み出す町だったとみられる。注意:水槽の用途を貯水池や灌漑施設とする異説もあり、船渠説は定説ではない。
10発展
この文明の担い手については、のちに南インドを中心に分布することになる、インド=ヨーロッパ語系とは異なる言語系統の人々ではないかとする説がある。この語族の名を答えよ。
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解答:ドラヴィダ系(ドラヴィダ語族)
解説:この説がしばしば挙げる手がかりの一つが、いまも南アジア西部に孤立して残るブラーフーイー語がこの語族に属することである。とはいえ文字が読めない以上、担い手の言語を確かめる手立てはない。対訳の資料が出て文字が読めるようになれば決着するが、その見通しは立っていない。
11発展
この文明の都市は前1800年ごろまでに衰退した。かつては外から入ってきた人々に滅ぼされたとする説が唱えられたが、現在ではその衰退はどのように考えられているか。簡潔に説明せよ。
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解答(例):気候の乾燥化や河川の流路の変化、それにともなう農業生産の落ちこみ、洪水や塩害、交易の衰えなど、複数の要因が重なって都市を維持できなくなったと考えられている。外から入ってきた人々に滅ぼされたとする説は、都市の衰退のほうが数百年早く、年代が合わないことから支持されなくなっている。
解説:かつては、のちの聖典に見える「砦を破る神」の讃歌を根拠に、侵入者による破壊が想定された。だが遺跡の年代を積み上げると、都市が衰えたあとに新しい人々が現れる順序になる。注意:衰退の原因は特定されていない。ここに挙げたのはいずれも有力な要因の候補である。
12発展
この文明の都市には、同じころの西アジアやエジプトの都市に見られるある種の遺構が乏しい。何が乏しいのかを示したうえで、そこから推測されている社会のあり方を簡潔に説明せよ。
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解答(例):巨大な王墓や王宮、都市の中心を占める神殿など、突出した権力者の存在を示す遺構が乏しい。いっぽうで重さをはかる分銅や都市の造りは遠く離れた都市どうしでも共通しており、強大な王による支配ではなく、共通の規範や信仰を通じた広い範囲のまとまりだったのではないかと説かれている。
解説:ピラミッドもジッグラトも王の墓も見あたらないのに、規格だけが広い範囲でそろっている。これは「誰が命じたのか」を答えにくくする組み合わせで、権力の姿が見えない文明とも呼ばれる。注意:定説はない。祭司や商人の集団による統治を想定する研究者もいれば、記録が読めないだけで王権はあったとみる研究者もいる。
日本史(14問)
単元:農耕社会の成立(弥生・小国の分立)(小国の分立と中国との交渉)
13史料
次は、紀元前1世紀ごろの倭について記した中国の歴史書の一節である(訓読)。
夫れ楽浪海中に倭人有り、分れて百余国と為る。歳時を以て来り献見すと云ふ。
中国の歴史書・燕地の条(訓読)
この記事を載せる中国の歴史書は何か。
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解答:『漢書』地理志
解説:前漢の歴史を記した書物で、その地理志の燕地の条に見える。ここでいう郡は、前108年に前漢の武帝が朝鮮に置いた4郡のうちの一つで、倭の小国はこの郡を窓口として中国と通じていた。「歳時を以て」は定期的に、という意味である。
14基本
57年、倭の小国の王が後漢に使いを送り、皇帝から印綬を与えられたと『後漢書』東夷伝は伝える。この小国の名を答えよ。
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解答:奴国
解説:現在の福岡平野(福岡市・春日市一帯)にあったとみられ、中枢は春日市の須玖遺跡群と考えられている。使者は自分を「大夫」と称し、この国が「倭国の極南界なり」と記された。倭の内部にいくつも国があり、そのうちの一つが単独で使いを送っていることが分かる。年は「ごな(五七)の奴国」と語呂で押さえる。
15基本
このとき与えられたものと考えられている金印が、江戸時代に福岡県で発見されている。この金印の印面に刻まれた5文字を答えよ。
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解答:「漢委奴国王」
解説:天明4年(1784年)2月23日に見つかったと伝えられ、いまは
福岡市博物館が所蔵して常設展示している(黒田家から福岡市へ寄贈)。「委」は「倭」に通じる。読みは「かんのわのなのこくおう」が通説だが、区切り方には異説もある。
16基本
この金印が発見されたと伝えられる、博多湾の入口に位置する島の名を答えよ。
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解答:志賀島
解説:砂州(海の中道)で本土とつながる島である。田の溝を直していた農民が偶然掘り当てた、と江戸時代の記録は伝える。注意:発見の経緯は江戸時代の口上書によるもので、出土した地点や状況の細部については議論が続いている。
17基本
107年、後漢の安帝に生口160人を献じ、皇帝への謁見を願い出たと『後漢書』東夷伝が記す倭国の王は誰か。
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解答:帥升
解説:名の伝わる最初の倭人である。「倭国王」と記されており、単独の小国ではなく、いくつかの国をまとめた立場だった可能性がある。生口は奴隷とみる説が有力だが、捕虜や技術者とする見方もある。この記事のあと、中国の史書から倭の記事はしばらく消える。注意:原文は「倭国王帥升等」で、帥升が人名か称号か、「等」が複数の王を指すのかについては議論がある。
18基本
2世紀の後半、倭で長い争乱が続いたことを中国の史書は伝えている。この争乱を何というか。
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解答:倭国大乱
解説:『後漢書』東夷伝は「倭国大いに乱れ、更々相攻伐して歴年主無し」と記し、桓帝・霊帝の間(146〜189年)のこととする。高地性集落は弥生中期の中部瀬戸内・大阪湾岸、後期の近畿とその周辺に分布し、この乱との関連を重視する見方があるが、分布の盛期と乱の時期は必ずしも一致しない。
19史料
次は、3世紀の倭について記した中国の歴史書の一節である(訓読・一部省略)。
其の国、本亦男子を以て王と為し、住まること七八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王と為す。……鬼道に事へ、能く衆を惑はす。年已に長大なるも、夫婿無く、男弟有りて、佐けて国を治む。
『魏志』倭人伝(訓読・一部省略)
この一節に記された、諸国が共同で立てた女王は誰か。
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解答:卑弥呼
解説:史料の読みでまず押さえたいのは、この女王が「共に立てられた」と書かれている点である。王位に就いた経緯そのものが記された、めずらしい記事といえる。「鬼道」は、倭のつとめをさして中国側が用いた語である。年齢や身内についての記述まで残っているのは、使者が現地で見聞きしたことが伝えられたためとみられる。
20基本
この女王が都をおいていたと同じ史書が記す国を何というか。
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解答:邪馬台国
解説:30ほどの国を従えていたと記される。読みは「やまたいこく」が通行だが、「やまとこく」と読む説もある。連合の盟主であって、列島全体を支配する統一政権ではない点に注意する。この国の名は中国の史書に現れるだけで、列島側が同時代に書き残した記録は見つかっていない。
21基本
239年、倭の女王が魏に使いを送り、皇帝から与えられた称号は何か。
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解答:親魏倭王
解説:金印紫綬と銅鏡百枚などを与えられたと記される。魏が呉と対立していた情勢のなかで、その背後にあたる東方の勢力を味方につける意味があったとみられる。注意:『魏志』倭人伝の本文は景初二年(238年)と記すが、景初三年(239年)の誤りとする説が有力で、教科書は239年をとる。
22地図
図のAは、奈良盆地の東南部にある、3世紀を中心に営まれた大規模な集落遺跡である。大型の
掘立柱建物の跡や各地の土器が見つかり、女王の都の有力な候補地とされてきた。この遺跡名を答えよ。(破線は、倭の使者が大陸へわたった経路の模式で、?は3世紀に使者が至った郡の位置である。)
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解答:纒向遺跡
解説:
桜井市は、辻地区で見つかった大型の
掘立柱建物の柱を復元して整備しており、この遺跡を「日本最初の『都市』とも考えられて」いると説明している。女王の都の所在をめぐっては九州説と畿内説が対立してきた。畿内説はこの遺跡や近くの
箸墓古墳を、九州説は史書の行程記事や北部九州の遺物を根拠とする。
23発展
3世紀のはじめ、朝鮮半島で勢力をのばした公孫氏が、楽浪郡の南部を分けて新たに置いた郡は何か。倭の使者はのちにこの郡を経て魏へ向かった。
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解答:帯方郡
解説:公孫氏が魏に滅ぼされたのち、この郡は魏が接収し、倭の使者はここに至ってから都の洛陽へ向かった。窓口が変われば、通じる相手も変わる。『魏志』倭人伝の行程記事は、この郡からの距離と方角で書き起こされており、女王の都の所在をめぐる論争もそこから始まる。注意:設置の年は204年ごろとされるが、確定していない。
24発展
女王の死後、ふたたび争いが起こったが、一族の13歳の女性が王に立てられて国はおさまったと史書は記す。この女性の名を答えよ。
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解答:壱与(台与)
解説:現在伝わる『魏志』倭人伝の文字は「壹與」で、「臺與(台与)」の誤りとする説がある。教科書も両方の表記を示す。争いが起きたのは男の王が立ったあとで、ふたたび女性を立てて収まったという順序も押さえておきたい。この記事ののち、倭は中国の史書からおよそ150年のあいだ姿を消す。
25発展
倭の小国の王たちは、なぜ中国の王朝に使いを送り、称号や印を求めたのか。簡潔に説明せよ。
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解答(例):中国の皇帝から称号や印綬を与えられることで、その権威を後ろだてとして国内での支配の正当性を示し、周辺の国々に対して優位に立とうとしたため。あわせて、先進的な文物や鉄などの資源を手に入れる目的もあった。
解説:使いを送るのは費用も危険もかかる事業で、それでも送るのは、外の権威が内の秩序に効くからである。この構図は5世紀の倭の五王、さらに室町将軍の「日本国王」号まで、形を変えて繰り返される。論述では「権威の借用」と「先進文物の入手」の二本立てで書く。
26発展
3世紀の倭の女王の地位と統治のしかたには、どのような特徴があったか。『魏志』倭人伝の記述にもとづいて簡潔に説明せよ。
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解答(例):長い争乱ののちに諸国が共同で立てた王であり、武力で他を従えて王になったのではない。呪術的・宗教的なつとめによって人々の支持を集め、その権威を統治の基盤としており、国の政治は弟が補佐した。
解説:ここで気をつけたいのは、呪術の力が本当にあったかを問うことでも、名目だけの飾りだったと決めつけることでもない。その力を人々が認め、受け容れる感覚を共有していたからこそ、共立が成り立つ。論述では「共立された王」「宗教的権威による統治」「弟による政務の補佐」の三点を骨格にする。
今日の範囲
世界史|南アジアの古代文明(インダス文明)
- 前2600年ごろ〜前1800年ごろ。インダス川とその支流の流域に、規格をそろえた焼煉瓦の計画都市が現れた
- 代表はハラッパー(パンジャーブ地方)とモエンジョ=ダーロ(シンド地方)。盛り土の上の城塞と、碁盤の目の市街地からなる
- 青銅器・彩文土器・綿。印章の出土から、メソポタミアとの交易も確かめられる
- 文字は未解読。担い手の系統も定まらず、ドラヴィダ系とする説がある
- 巨大な王墓や神殿が見あたらないまま前1800年ごろに衰退。侵入による破壊説は年代が合わない
日本史|農耕社会の成立(小国の分立と中国との交渉)
- 前1世紀=『漢書』地理志。倭は「百余国」に分かれ、楽浪郡を窓口として中国と通じた
- 57年=奴国が後漢から印綬を受ける(志賀島で見つかった「漢委奴国王」の金印)。107年=帥升が生口を献じる
- 2世紀後半=倭国大乱。長い争乱ののち、諸国が共同で卑弥呼を女王に立てた
- 239年=女王が魏へ使いを送り「親魏倭王」の称号を受ける。死後は壱与(台与)が立った
- 使者は帯方郡を経て大陸へ渡った。女王の都の所在は畿内説・九州説が対立している
二つの範囲の隔たり:インダスの都市が放棄されてから、列島が中国へ使いを送るまで、およそ千八百年。年表は同時代性ではなく、この隔たりを見るために並べている。
フィールドノート
メアリ・ダグラス『汚穢と禁忌』
人類学者のメアリ・ダグラスは、一九六六年の『汚穢と禁忌』で、汚れとは「場違いなもの」だとする古い定義を引き受けて論じたのだという。土は畑にあれば土だが、食卓にあれば汚れになる。汚れは物そのものの性質ではなく、その社会がもっている分類の秩序を乱すかどうかで決まる、という見方である。
この枠組みで扱われたのは、旧約聖書の食物規定のように、清浄と不浄を分ける規則をもつ社会だった。規則を衛生の知識の反映として読むのではなく、その社会が世界をどう区切っているかの表れとして読む——それがこの本の議論の骨格である。同書は世界的なベストセラーとなり、彼女の学界での名声を確立した。
今日の鍵語:メアリ・ダグラス/『汚穢と禁忌』(一九六六年)/汚れ=分類の乱れ *二十世紀の民族誌と聖書研究をもとに立てられた枠組みで、古代の遺跡や史料に機械的にあてはめられるものではない。
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高校歴史探究・大学受験レベル|Day 007