世界史(10問)
単元:南アジアの古代文明(アーリヤ人の進入とヴェーダ時代)
1基本
前1500年ごろ、中央アジアの方面から南アジアの北西部に入り、やがて定住して農耕と牧畜を営むようになった、インド=ヨーロッパ語系の人々を何というか。
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解答:アーリヤ人
解説:草原で牛や馬を飼っていた集団の一派が、山脈の切れ目を越えて南へ下ったと考えられている。同じ語系の集団はイラン高原にも入り、そちらは「イラン」という地名のもとになった。同じ語系の枝が、南アジアとイランに分かれたことになる。注意:「アーリヤ」は「高貴な」といった意味の自称で、人種を指す語ではない。近代の人種論に転用された経緯があるので、民族の優劣の話に結びつけない。
2基本地図
図のAは、ヒンドゥークシュ山脈の南に連なるスピーン=ガル(サフェード=コー)山脈の東の端を越える峠で、この人々が南アジアへ入る経路にあたった。Bは、大河の上流部にあたり、この人々が最初に定住した地方である。A・Bの名をそれぞれ答えよ。(2枚目はAの周辺の拡大図)
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解答:A=カイバル峠 B=パンジャーブ地方
解説:南アジアは北西を高い山脈にふさがれており、その数少ない切れ目が人と物の通り道になった。Aが越えるのは、ヒンドゥークシュ山脈の南に東西およそ160キロメートルにわたってのびるスピーン=ガル(サフェード=コー)山脈の、東の端にあたる支脈である(最高峰は4,755メートル)。その北側にはカーブル川の谷が並行して走り、西のジャラーラーバードと東のペシャワール盆地を結んでいる。この峠は以後も、外から入ってくる勢力の進入路として幾度も使われる。Bは五つの川が集まる肥沃な土地で、地方名そのものが「五つの水」に由来する。山が閉ざし、峠だけが開いているという地形が、人と物の通り道を決めていた。
3基本
この人々が神々にささげた讃歌を集めた、南アジアで最も古い聖典は何か。
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解答:『リグ=ヴェーダ』
解説:千を超える讃歌からなり、雷や火など自然の力を神格化した神々への呼びかけが並ぶ。文字に書かれず、師から弟子へ声で伝えられた。そのため、そこに映る社会の様子は読み取れても、出来事を年代順に跡づけることは難しい。最古の聖典は、書物としてではなく声として伝えられたことになる。
4基本
讃歌や祭詞を集めた聖典群をよりどころとし、儀礼をつかさどる身分がその祭祀を独占した、古代インドの宗教を何というか。
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解答:バラモン教
解説:教祖も教団もなく、儀礼の体系と身分の秩序が一体になっている点が特徴で、のちに現れる仏教・ジャイナ教との違いもそこにある。各地の民間信仰を取りこみながら変容していったものが、のちのヒンドゥー教にあたる。儀礼の体系が民間信仰を吸収してヒンドゥー教になる、というつながりは頻出。
5発展
古代インドでは、神々にささげる儀礼を定められたとおりに行うこと自体に力があり、神々でさえその力に従うと考えられるようになった。この考え方を何というか。
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解答:祭式万能主義(祭式至上主義)
解説:手順を誤りなくふめば望む結果が得られるとされたため、手順を知る者の地位はきわめて高くなる。信仰の中身よりも手続きの正確さが重んじられた、と言いかえてもよい。のちにこの考え方への批判から、儀礼ではなく内面の探究へ向かう思想が生まれてくる。神を動かすのは祈りではなく手順である、という考え方だと押さえておきたい。
6基本
この人々の社会では、司祭・王侯戦士・庶民・隷属民という、生まれによって定まる四つの身分の区分が形づくられていった。この身分の枠組みを何というか。
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解答:ヴァルナ制(四姓制度)
解説:この語はもともと「色」を意味し、先住の人々との区別を背景にもつとされる。上の三つの身分と最下位とのあいだに線が引かれ、生まれが役割を決め、役割が生まれを固める仕組みができあがっていった。四つの枠は、職の分担であると同時に序列でもある。注意:この四つの枠と、のちに広がる職業・地域ごとの細かな集団の区分とは別の層の話なので、同じものとして扱わない。
7発展史料
次は、この人々が伝えた最古の讃歌集の一節である(原人プルシャの犠牲によって世界が生じたとする讃歌・現代語訳)。
彼の口はバラモンとなり、両腕は王侯・戦士とされ、両腿は庶民、両足からは隷属民が生まれた。
原人の讃歌 第10巻90歌(現代語訳)
(1) 両腕から生じたとされる身分の名を答えよ。(2) この讃歌が身分の秩序をどのように性格づけているか、簡潔に述べよ。
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解答:(1) クシャトリヤ (2) 世界の始まりにさかのぼる神話的な起源を与えることで、身分の序列を人がつくった制度ではなく世界の成り立ちそのものだとして正当化している
解説:身体の上部(口)から下部(足)へ向かう順序が、そのまま序列の高低に対応している。制度を「はじめからそうだった」と語る物語は、その秩序を疑わせない働きをもつ。史料問題では「何が書いてあるか」だけでなく「その記述が何をしているか」まで読めると差がつく。注意:この讃歌で両腕から生じたとされる身分の原語は「ラージャニヤ(rājanya)」で、のちのクシャトリヤにあたる語である。出典は『リグ=ヴェーダ』第10巻の讃歌(プルシャ=スークタ)。
8発展
四つの身分のうち最下位に置かれ、上位の身分に奉仕することをつとめとされた隷属民の身分を何というか。
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解答:シュードラ
解説:上位の三つの身分に奉仕する隷属的な労働者・職人とされ、儀礼に加わることを許されなかった。農耕・牧畜・商業はもともと第三の身分の領分で、農業や牧畜に従事する者までがこの身分とみなされるようになるのは、ずっとのちの時代の変化である。上位の三つの身分は儀礼を通じて「二度目の誕生」を得るものとされ、そこから外れる点に線が引かれた。身分の差が、財産の多寡ではなく儀礼への参加の可否で示されている点が重要。身分の線は、儀礼に入れるかどうかで引かれていた。
9基本
前1000年ごろ、この人々はさらに東方の大河の流域へ生活の場を移した。湿潤で森林におおわれたこの地の開拓を進めることを可能にしたと考えられている金属器は何か。
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解答:鉄器
解説:森を切り開いて耕地を広げ、この地では稲作も行われるようになった。生産が増えれば人が集まり、やがて都市と国家が生まれる——「この金属器の普及→生産力の増大→社会の分化」という型は、他地域にも共通する。注意:「鉄器が森を開いた」は教科書の標準的な整理だが、初期の鉄器は小型の斧や鍬が中心で、開墾は火入れや木製の犂でも進められたとして、鉄の役割をより限定的にみる研究もある。
10基本
この人々の言語が整えられ、のちに南アジアの学問や文学の文語として長く用いられた言語を何というか。
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解答:サンスクリット語(梵語)
解説:聖典はこの言語で伝えられ、儀礼をつかさどる身分がその管理にあたった。のちに現れる新しい宗教が、民衆の日常の言葉に近い言葉で説かれたこととあわせて見ると、どの言葉で語るかがそのまま権威の所在を示していたことが分かる。聖典の言葉と日常の言葉の使い分けは、のちの時代にもくり返し現れる。
日本史(11問)
単元:古墳とヤマト政権(古墳の出現と変遷)
11基本
3世紀中ごろに奈良盆地に現れ、以後各地へ広まっていった、円形と方形の墳丘を組み合わせた形式の古墳を何というか。
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解答:前方後円墳
解説:日本列島で生まれた形式で、規模には段階があり、大きさがそのまま格の違いを表したと考えられている。円い部分に埋葬施設が造られ、方形の部分では葬送の儀礼が行われたとみられる。注意:「日本独自」とは書かない。朝鮮半島南西部にも同じ形の墳墓が十数基あり、列島のものより後の時期とするのが通説である。
12基本
奈良県桜井市にあり、墳丘の長さが約280メートルにおよぶ、出現期の大型の古墳のうちでも最も古い時期のものとされる古墳は何か。
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解答:箸墓古墳
解説:築造は3世紀中ごろとみられ、それまで各地に営まれてきた墓とは規模が桁違いである。この時期に、これだけの労働力を動かせる勢力が現れたことになる。3世紀の倭の女王の墓とする説もあるが、被葬者は確定していない。墓の大きさは、動かせる人の数を表していると考えてよい。
13基本
3世紀中ごろから後半にかけて、奈良盆地を中心とする近畿の勢力を軸に形づくられた政治連合を何と呼び、その首長は何と呼ばれたか。
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解答:ヤマト政権(大和政権)/大王(おおきみ)
解説:政権の中枢を握ったのは近畿の有力な豪族たちで、のちの律令国家のような官僚の仕組みはまだない。首長の称号は、のちに「天皇」号が成立するまで用いられた。盟主であって、専制の君主ではない。注意:形成の時期は「3世紀中頃から後半にかけて」と幅で押さえる。古墳の出現と切り離して後ろにずらさない。なお「大王」の称号がさかのぼって確認できるのは5世紀の金石文からで、政権の成立期からこの語が使われていたことが確かめられているわけではない。
14基本
古墳時代の前期・中期に多くみられる、棺の周囲に石を積んで壁をつくり、上から天井石でふさいだ埋葬施設を何というか。一度ふさぐと、あとから開くことができない。
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解答:竪穴式石室
解説:一人を葬るためにつくられ、天井石でふさいだあとは開かない構造になっている。この時期には、木の棺を粘土でおおう形式などもみられる。埋葬施設の構造そのものが、誰のための墓かを語っている点をおさえたい。一度ふさいだら開かない墓である、という点が次の時代との対比になる。
15基本地図
図のAは
墳丘の長さが約486メートルにおよぶ日本最大の古墳、Bは
墳丘の長さが約350メートルで、近畿の外に築かれた大型の古墳である。A・Bの名をそれぞれ答えよ。
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解答:A=大仙陵古墳(大山古墳・仁徳天皇陵古墳) B=造山古墳
解説:Aは5世紀の大阪平野に営まれ、
墳丘の規模は世界でも最大級である。Bは
岡山市の公式の説明によれば5世紀前葉の築造で、全長350メートル、規模は全国4位にあたる。近畿の外にこれほどの古墳が営まれたことは、地方にも強い勢力があったことを示す。
注意:Aは宮内庁が天皇陵として治定しているが、被葬者は確定していない。
16発展
日本最大の古墳を含む、大阪府の二つの古墳群を総称して何というか。
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解答:百舌鳥・古市古墳群
解説:堺市の側と、羽曳野市・藤井寺市の側の二つのまとまりからなる。かつて両群あわせて200基を超える古墳が築かれたが、いま残るのは89基で、そのうち45件49基が、4世紀後半から5世紀後半にかけて築かれた資産として2019年7月に世界文化遺産へ登録された。大王の墓とみられる巨大な古墳と、それを取りまく小さな古墳とが階層をなして並んでいる。全体像は
堺市の百舌鳥古墳群ビジターセンターで見ることができる(入館無料・年末年始のみ休館)。
17発展
古墳の副葬品は、前期には銅鏡・玉・碧玉製の腕飾りなどが中心であるのに対し、中期には甲冑・馬具・鉄製の武器が中心となる。この変化は、葬られた首長の性格がどのように変わったことを示すと考えられるか、簡潔に説明せよ。
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解答(例):呪術的・司祭者的な性格の首長から、武力を背景に支配する武人的・軍事的な性格の首長へと変わったこと。
解説:前期=まじないの力で共同体をまとめる司祭者、中期=武力で支配する武人、という対比で押さえる。中期に馬具が加わるのは、朝鮮半島との交渉のなかで騎乗の風習と技術が伝わったためと考えられている。副葬品から社会を読ませる問題は共通テストで頻出。
18基本
古墳時代の後期に一般化した、羨道とよばれる通路と、玄室とよばれる棺を置く部屋とからなる埋葬施設を何というか。
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解答:横穴式石室
解説:朝鮮半島の影響を受け、北部九州から各地へ広まった形式である。石室の規模や副葬品の内容には地域差・階層差が大きく、造り方から被葬者の位置づけをうかがうことができる。石を積んだ部屋が、墳丘の中につくられることになる。
19発展
後期の埋葬施設では、前期・中期のものではできなかった葬り方が可能になった。その葬り方を何というか。またそれは、古墳に葬られる人の単位がどのように変わったことを示すか、簡潔に説明せよ。
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解答(例):追葬/首長ひとりのための墓から、家族・親族をあわせて葬る墓へと変わったこと。
解説:入り口を開いて何度でも葬れるため、同じ石室に複数の遺体が納められる。古墳が「ひとりの記念物」から「一族の墓」へと性格を変えたことになる。あとで見る小さな古墳の密集とあわせると、後期の社会の変化が立体的に見えてくる。
20基本
6世紀ごろ、小規模な古墳が狭い範囲に数十基から数百基も密集して造られるようになった。このような古墳の群を何というか。
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解答:群集墳
解説:それまで古墳は各地の首長のものだったが、鉄製の農具の普及などで力をつけた有力な農民層が古墳を営むようになったと考えられている。近畿を中心に各地でみられる。古墳がありふれてきたこと自体が、社会の変化を語っている。墓が増えることは、力が広がることでもある。注意:「有力な農民層」は教科書の標準的な整理。実際の群集墳は副葬品の内容に幅が大きく、被葬者を在地の有力者層・有力な家父長層の家族とみる議論もある。
21発展
奈良盆地に現れた古墳の形式は、3世紀後半以降、東北南部から九州にいたる各地の有力な墓に採用されていった。各地の首長がこの形式を受け入れたことは、当時の支配のあり方についてどのようなことを示すと考えられるか、簡潔に説明せよ。
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解答(例):武力による一元的な征服ではなく、各地の首長が共通の墓の形式を受け入れることで秩序に加わる、ゆるやかな結びつきによって支配が成り立っていたこと。
解説:形式を共有するということは、その形式を認める関係に入るということでもある。武力で一元的に征服したのではなく、各地の首長が連合に加わっていったという理解が現在の標準である。同じ形の墓は、同じ秩序に参加した証しでもある。
今日の範囲
世界史|南アジアの古代文明(アーリヤ人の進入とヴェーダ時代)
- 前1500年ごろ、アーリヤ人がカイバル峠を越えてパンジャーブ地方へ入った
- 『リグ=ヴェーダ』を最古とするヴェーダが聖典となり、バラモンが祭式を独占するバラモン教が成立。祭式万能主義と呼ばれる
- 身分はバラモン・クシャトリヤ・ヴァイシャ・シュードラの四つに分かれる(ヴァルナ制)。プルシャ賛歌は、その順序を世界の始まりの物語として語る
- 前1000年ごろに東方のガンジス川流域へ進出。鉄器の使用が開拓を進めた
- 言語は整えられてサンスクリット語となり、以後の学問と文学の文語になった
日本史|古墳とヤマト政権(古墳の出現と変遷)
- 3世紀中ごろ、奈良盆地に前方後円墳が現れる(箸墓古墳)。同じ形式が各地へ広がった
- 近畿の勢力を中心とする政治連合がヤマト政権で、その首長は大王と呼ばれた
- 埋葬施設は前期・中期の竪穴式石室から、後期の横穴式石室へ。追葬ができるようになり、葬られる単位が個人から家族・親族へ変わった
- 中期には大仙陵古墳・造山古墳のような巨大古墳が築かれた(百舌鳥・古市古墳群)
- 副葬品は銅鏡や玉から甲冑・馬具へ移り、後期には小型の古墳が密集する群集墳が現れる
二つの範囲の隔たり:アーリヤ人がガンジス川流域へ移ってから、列島に大型の古墳が現れるまで、およそ千二百年。年表は同時代性ではなく、この隔たりを見るために並べている。
フィールドノート
ホブズボーム/レンジャー編『創られた伝統』
歴史家のエリック・ホブズボームは、テレンス・レンジャーとの共編『創られた伝統』(一九八三年)を編んだ。版元の紹介によれば、同書は、大昔からの起源をもつと考えられている伝統の多くが、実際には何世紀もの慣行に支えられたものではなく、比較的最近になって創られたものだった、と論じているのだという。
収められた論考が扱うのは、主に十九世紀から二十世紀にかけてのヨーロッパと植民地期の社会である。国民国家や統治のしくみが新しくつくられた時期に、それを古くからのものとして示す儀礼や慣習が同時につくられていった、という筋道が論じられている。
今日の鍵語:エリック・ホブズボーム/テレンス・レンジャー/『創られた伝統』(一九八三年) *近代・植民地期の事例をもとに立てられた枠組みで、古代の史料に機械的にあてはめられるものではない。
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高校歴史探究・大学受験レベル|Day 008