世界史(12問)
単元:南アジアの古代文明(新しい思想と諸国の成立)
1基本
前6世紀ごろ、ガンジス川の流域には各地に有力な国々が生まれ、たがいに覇を競うようになった。この時代の有力な国々を総称して何というか。
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解答:十六大国
解説:森を開いて耕地が広がったこの地域では、川ぞいに人と物の集まる場所が育ち、そこを核として国が形をとった。強い権力をもつ王が支配する国と、合議によって運営される国とが並び立っていたと伝えられる。名の知られた大国と、それに従う小さな国とがあり、争いのなかで統合が進んでいく。注意:この数え方は仏教やジャイナ教の文献に伝わるもので、国の数や境界がその通りに確定しているわけではない。
2基本地図
図のAは、この時代の有力な国々のうち、大河の中流から下流にかけての南側に位置し、のちに諸国のなかで最も強大となった国である。Bは、その北西で、同じ大河の中流域の北岸に位置した国である。A・Bの国名をそれぞれ答えよ。
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解答:A=マガダ国 B=コーサラ国
解説:川の流れの順に「B=中流の北岸(西寄り)/A=中・下流(東寄り)」と組んで覚える。Aは鉄などの鉱産資源を産する丘陵をひかえ、大河の水運を押さえていたことが強さの背景とされる。Bはやがて争いに敗れてAに併合された。注意:Bを「上流域」と書かない。上流域は後期ヴェーダ時代の中心となった別の国々を指す語である。
3基本
前7〜前6世紀ごろ、バラモン教の祭式万能主義に対して、祭式そのものよりもその背後にある真理を内面の思索によって探究する立場が現れ、ヴェーダ文献の最後の層をなした。この思索を何というか。
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解答:ウパニシャッド哲学
解説:讃歌の本集・祭式の解説書・森林書に続く第四の層にあたる文献群を指す。「ヴェーダーンタ(ヴェーダの終わり)」と呼ばれるのはそのためで、聖典の外から現れた対抗思想ではない点に注意したい。対比の軸は、祭式の次第を伝える本集と、祭式の意味を探究するこの層とのあいだにある。
4発展
この思索の中心には、宇宙の根本原理(ブラフマン)と、個人の内にある本質(アートマン)とは究極において同一である、という考えがある。この考えを何というか。
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解答:梵我一如
解説:ブラフマンを「梵」、アートマンを「我」と漢語に訳したところから、この呼び名がつくられた。祭式をどれだけ正確に行うかではなく、この同一性を自ら知ることに解放の道があるとされた点が、それまでの立場との分かれ目になる。
5基本
この思索では、人は自分の行為(業=カルマ)の結果として生死をくり返すとされた。(1) この生まれ変わりのくり返しを何というか。(2) そこから抜け出て自由になることを何というか。
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解答:(1) 輪廻(輪廻転生) (2) 解脱
解説:苦しみの根は、死んでも終わらずくり返されることにある、という捉え方である。よい行いをすればよい生まれを得るが、それでもくり返し自体は終わらない。だから目標は「よい生まれ」ではなく、くり返しの外へ出ることに置かれる。この枠組みは、のちに現れる新しい教えにも受けつがれた。
6基本
前6〜前5世紀ごろ、ヒマラヤ山麓のシャカ族に生まれ、出家して修行のすえに悟りを開き、仏教を開いたとされる人物は誰か。
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解答:ガウタマ=シッダールタ(ブッダ・釈迦)
解説:「ブッダ」は「目ざめた者」を意味する呼び名で、固有名詞ではない。「釈迦」は出身の一族の名にもとづく呼び方で、同じ人物が、悟りを表す称号でも、生まれた一族の名でも呼ばれていることになる。解答としてはどれも通るが、教科書の表記に揃えておきたい。注意:生没年は前463年頃〜前383年頃とする説と、それより約100年さかのぼる説とが並立していて、確定していない。
7発展
この人物は、身をさいなむはげしい修行にも、欲望のままの生活にも、どちらにもかたよらない生き方を説いた。この生き方を何というか。
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解答:中道
解説:出家してのちしばらくは、食を断つような激しい修行に身を置いたが、それでは悟りに至らないとしてこれを捨てた、と伝えられる。極端を捨てるという構えは、快楽を求める立場と苦行を尊ぶ立場のどちらとも異なる第三の道として示された。
8発展
仏教は、苦とその原因、その消滅と、消滅にいたる実践とを、ひとつづきの筋道として説く。この根本の教えを何というか。
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解答:四諦
解説:「諦」は「あきらめ」ではなく「明らかにされた真実」の意である。病の診断にたとえると分かりやすい——症状の確認、原因の特定、治るという見通し、そして治療法、という順に並んでいる。原因を突きとめてから手当てを示すこの組み立て自体が、この教えの性格を表している。
9基本
前6〜前5世紀ごろ、司祭の身分の権威と、その祭式の意味を否定し、きびしい苦行と、持たないことの徹底を説いて広まった宗教は何か。
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解答:ジャイナ教
解説:仏教が国外へ広く伝わったのに対し、こちらは南アジアの中にとどまりつつ、今日まで信仰が続いている。外へ広がった教えと、内に残った教え、と対にして押さえるとよい。教団はのちに二つの派に分かれるが、いずれの派も今日まで存続しており、途中で断絶していない。
10基本
この宗教を開いたとされる人物は誰か。
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解答:ヴァルダマーナ(マハーヴィーラ)
解説:王侯・戦士の身分の出身とされ、三十歳ごろに出家したと伝えられる。「マハーヴィーラ」は「偉大な勇者」を意味する尊称で、信者はこの呼び名を用いる。同じ時代・同じ地域に、司祭の身分の外から二人の開祖が現れたことを、まず押さえたい。
11発展
この宗教が五つの誓いの第一に置き、仏教もまた重んじた戒めで、二十世紀にはガンディーが自らの運動の柱にすえた語を何というか。
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解答:不殺生(アヒンサー)
解説:生きとし生けるものを害してはならない、という戒めである。一部の教団では、修行者が口もとに布を当てる。ジャイナ教の事典
Jainpedia は、その理由を、息とともに微細な生きものを取りこんでしまうことと、吐く息で不意に傷つけてしまうこととの、どちらも避けるためだと説明している。
注意:この戒めは二つの派に共通する根本の戒めであって、教団が分かれた争点ではない。争点は、持たないことをどこまで徹底するか、女性が解放に至れるか、どの聖典を正統とするか、といった点にあった。口布を常に着けるのは白衣派のなかの一部の教団で、裸形派の修行者は着けない。
12発展
前6〜前5世紀の北インドで、司祭の身分の権威を批判する新しい教えが、王侯・戦士の身分や、商工業を営む人びとにひろく受け入れられたのはなぜか。当時の社会の変化にふれて簡潔に説明せよ。
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解答(例):農業の生産が増えて都市と商工業が発達し、国家の形成が進むなかで、王侯・戦士の身分(クシャトリヤ)や富を蓄えた庶民の身分(ヴァイシャ)が実際の力を強めた。生まれによって定まる序列と、祭式を独占する司祭の身分の優位は、その実力に見合わなくなっていたから。
解説:新しい教えはいずれも、生まれではなく各自の実践によって解放に至れると説いた。力をつけた側にとっては、自分の位置を裏づける根拠が、生まれの秩序の外に用意されたことになる。教えの内容だけでなく、それを支持した層の利害まで見ると、思想の広がりが立体的に見えてくる。
日本史(8問)
単元:古墳とヤマト政権(東アジアの動きと対外関係)
13基本地図
図は4〜5世紀の朝鮮半島とその周辺を示す。Aは中国東北部からおこり、半島の北部を支配して南へ勢力をのばした国、Bは半島の南西部に成立した国である。Cは半島の南部で、小国が分立したまま統一されず、倭が早くから密接な関係をもった地域である。A・B・Cの名をそれぞれ答えよ。
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解答:A=高句麗 B=百済 C=加耶(加羅)
解説:Aは4世紀初めに半島北西部の中国の郡を滅ぼし、5世紀には平壌へ都を移して南下を強めた。Cはついに統一国家をつくらないまま、6世紀なかばまでに新羅と百済に併合され、中心となった地域は東隣の新羅に取りこまれる。注意:Cを「任那」と呼ぶのは『日本書紀』の側の呼称であり、現在の教科書は「加耶(加羅)」を用いる。解答として並べて書かない。
14基本史料
次は、中国吉林省
集安にある石碑に刻まれた碑文の一部である(訓読)。この石碑は414年に建てられ、ある王の功績を伝えている。
百残・新羅は旧是れ属民なり。由来朝貢す。而るに倭、辛卯の年よりこのかた、海を渡りて……
碑文(訓読)
(1) この石碑は、どの王の功績を伝えたものか。(2) この碑文は、当時の倭をどのような存在として書いているか、簡潔に述べよ。
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解答:(1) 好太王(広開土王) (2)(例)碑を建てた側が「旧是れ属民」とみなす百残・新羅に対して、海を渡って関わってくる勢力として書いている
解説:碑を建てたのは王の子で、父の功業をたたえるために刻ませたものである。「百残」は半島南西部の国を指す、この碑の側からの蔑んだ書き方。中国の史書が後の時代に編まれたものであるのに対し、この碑は出来事に近い時期に刻まれた記録であり、そのぶん論争の的にもなってきた。史料は「いつ書かれたか」で読み方が変わる。注意:「辛卯の年」(391年)以下の一節は、どこまでを倭の行為と読むかをめぐって古くから論争があり、倭が半島南部を支配した証拠として使うことはできない。碑文そのものが、たたえる側の立場から書かれた記録であることを忘れない。
15基本史料
次は、5世紀に倭の王が中国の南朝へ送った
上表文の一部である(訓読)。
東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国
『宋書』倭国伝(訓読)
この
上表文の送り主を含む、5世紀に中国の南朝へあいついで使いを送った倭の王たちを、総称して何というか。
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解答:倭の五王(讃・珍・済・興・武)
解説:この上表文の送り主は「武」。「毛人」は東方の、「衆夷」は西方の従わない人びとを指し、「海北」は海の向こう、すなわち朝鮮半島を指す。国の数は誇張を含むとみられるが、東西と海の向こうの三方向を並べて自分の功を述べる書き方そのものに、皇帝から高い地位を得ようとする意図が表れている。
16発展
これらの王は、中国の南朝の皇帝から官爵を与えられ、その臣下として位置づけられた。(1) 倭の王が与えられた、東方を鎮めるという意味をもつ将軍の称号を何というか。(2) このように、中国の皇帝が周辺の君長に官爵を与えて君臣の関係を結ぶ体制を何というか。
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解答:(1) 安東大将軍 (2) 冊封(冊封体制)
解説:478年、倭王武は宋から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」に任じられた。地域の軍事的な指揮権を表すのは「使持節都督〜六国諸軍事」の部分で、将軍号はそれに添えられた位にあたる。倭側は百済を含む七国を申請したが、百済に対する称号は認められていない。注意:この長い称号にならぶ地名は中国側の文書での表記であり、そのまま倭の実際の支配範囲を示すものではない。称号の内容は、倭側の申請と中国側の判断とのせめぎ合いの結果である。
17発展
5世紀の倭の王たちが、中国の南朝へあいついで使いを送ったのはなぜか。当時の朝鮮半島の情勢にふれて簡潔に説明せよ。
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解答(例):倭は鉄の資源と技術を求めて朝鮮半島南部に深く関わっており、南下してくる高句麗と対立していた。そこで中国の皇帝から称号を得てその権威を借り、半島南部での立場を有利にしようとしたから。あわせて、国内の豪族に対する自らの地位を高める意味もあった。
解説:外の権威を借りて内の地位を固める、という型は東アジアでくり返し現れる。列島の側から見れば、皇帝の臣下という低い位置を引き受けることと引きかえに、半島での立場と国内での地位を手に入れたことになる。何を差し出して何を得たのか、という交換の形で押さえたい。
18基本
奈良県の石上神宮に伝わる、刀身の左右に枝のような刃が出た特異な形の鉄剣で、刀身に象嵌された銘文から、朝鮮半島の王が倭王に贈ったものと考えられている国宝を何というか。
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解答:七支刀
解説:
石上神宮の公式の説明によれば、全面が鉄錆におおわれた鉄製の剣で、銘文の解釈から369年の作と考えられており、『日本書紀』が
神功皇后の摂政52年に
百済から贈られたと記す「七枝刀」にあたるとみられている。同じ説明は、この剣が社伝では「六叉鉾」と称されてきたが、現在は刀身に記された銘文によって今の名で称している、と述べている。
19基本
埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣と、熊本県の江田船山古墳から出土した鉄刀には、象嵌された銘文に、同一の人物とみられる大王の名が記されている。この名を答えよ。
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解答:ワカタケル大王(獲加多支鹵大王)
解説:稲荷山の鉄剣は金象嵌で115文字、江田船山の鉄刀は銀象嵌で75文字。「ともに金象嵌」は誤りで、正誤問題でねらわれる。江田船山側は三字を欠いて「獲□□□鹵大王」と読まれてきたが、稲荷山の銘文が現れたことで、同じ名と復元する説が有力になった。稲荷山の銘文は、出土から十年後の1978年、保存処理の作業中に発見されたものである。
20発展
この二つの古墳は、関東と九州という遠く離れた地に営まれている。その両方から、同じ大王の名を記した銘文が出たことは、当時の政治についてどのようなことを示すと考えられるか、簡潔に説明せよ。
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解答(例):5世紀後半には、奈良盆地を中心とする政権の力が関東から九州中部にまでおよんでおり、各地の豪族がその大王に仕える関係に組みこまれていたこと。
解説:銘文には、剣や刀の持ち主が大王に仕えたことが記されている。墓に納められた副葬品が同じ大王の名を語るということは、その関係が地域の側にとっても誇るべきものであったことをうかがわせる。武力による一元的な征服というより、各地の首長が関係に加わっていく形で支配が広がったのだろう、という見方につながる。
今日の範囲
世界史|南アジアの古代文明(新しい思想と諸国の成立)
- 前6世紀ごろのガンジス川流域には十六大国と呼ばれる国々が分立し、なかでもマガダ国とコーサラ国が有力になった
- 都市と商工業の発達でクシャトリヤやヴァイシャが力をつけ、バラモンの祭式万能主義への疑いが広がった
- バラモン教の内部からはウパニシャッド哲学が生まれ、輪廻からの解脱を、梵(ブラフマン)と我(アートマン)が一体であると悟ることに求めた
- ガウタマ=シッダールタは苦行と快楽の両極を離れる中道を説き、四諦によって苦の原因とその滅し方を示した
- ヴァルダマーナが開いたジャイナ教は、徹底した不殺生(アヒンサー)と苦行を説き、都市の商工業者に受け入れられた
日本史|古墳とヤマト政権(東アジアの動きと対外関係)
- 4〜5世紀の朝鮮半島では高句麗が南下し、百済と新羅が国家を形成、加耶(加羅)には小国が分立していた
- 好太王碑は、倭が海を渡って戦ったことを高句麗の側から記す。辛卯年条の読み方には論争がある
- 5世紀には讃・珍・済・興・武の倭の五王が中国の南朝へ使いを送った(『宋書』倭国伝)
- 倭王は安東大将軍などの称号を求めた。冊封を受けることで半島での立場を有利にしようとしたとみられる
- 七支刀や、稲荷山古墳の鉄剣・江田船山古墳の鉄刀の銘文は、ワカタケル大王の支配が関東から九州中部にまで及んでいたことを示す
二つの範囲の隔たり:北インドに新しい教えが現れてから、列島の王が中国の南朝へ使いを送るまで、およそ九百五十年。年表は同時代性ではなく、この隔たりを見るために並べている。
フィールドノート
境界にとどまる時間
人が身分や役割を変えるとき、その移り変わりはたいてい一瞬では終わらない。アルノルト・ファン・ヘネップ(一八七三〜一九五七)は、フランスの文化人類学者・民俗学者で、一九〇九年の『通過儀礼』で知られる。誕生・成人・結婚・葬送といった、世界各地の儀礼を並べてみると、そこには共通の形があるという。前の状態から切り離される段階、どちらでもない段階、新しい状態へ組み入れられる段階の三つである。
おもしろいのは真ん中の段階だろう。ここでは、その人はもう以前の自分ではなく、まだ次の自分でもない。この中間の段階を指す「リミナリティ」という語の出どころは、ターナーではなくファン・ヘネップの側にある——ターナー自身、『儀礼の過程』でこの語をファン・ヘネップに帰している。ここは取り違えやすいところで、「ターナーがそう名づけた」と書くと誤りになる。
ではヴィクター・ターナー(一九二〇〜一九八三)は何をしたのか。彼はこの中間の段階を掘り下げ、そこにいる人が不安定さ・あいまいさ・身をひくこと・孤立・試練にさらされることを描いた。そして、そこで生まれる結びつきのほうに新しい名を与えた。コムニタス(コミュニタス)——社会の構造が消え、みなが対等になる状態のことである。同じ試練の中にいる者どうしは、外の序列を持ちこまずに向き合えるのだという。
今日の鍵語:ファン・ヘネップ/通過儀礼の三段階/リミナリティ/ターナーとコムニタス *リミナリティの語をターナーの造語としないこと。ターナーが鋳造したのはコムニタスのほうである。*三段階は儀礼を見わたすための型であって、あらゆる儀礼がこの順序にきれいに収まるわけではない。
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