DAY 010
2026年8月24日(月)
骨に問うて決めた王と、名を与えて束ねた王
世界史:中国の古代文明
日本史:古墳とヤマト政権
世界史(10問)
単元:中国の古代文明(中国文明の発生と殷)
1基本
黄河の中流域では、前5000年紀ごろから、赤褐色の地に文様を描いた土器(彩陶)を用いる農耕文化が栄えた。この文化を何というか。
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解答:仰韶文化
解説:半地下式の住居が集まる集落を営み、周囲に濠をめぐらせた例が知られる。西安近郊の半坡遺跡がその代表とされる。土器の見た目で次の文化と対にして覚えるとよい——彩りのある土器がこちら、黒く薄い土器が次に現れる文化である。注意:この文化の年代は前5000年紀から前3000年前後までと幅をもって示され(前2700年ごろまでとする資料もある)、遺跡ごとに時期が異なる。一つの年号で覚えない。
2基本
前3000年紀の後半ごろから黄河の中・下流域に広がり、ろくろを用いた薄手で黒色の土器を特徴とする農耕文化を何というか。
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解答:竜山文化
解説:この時期には、土を層ごとに突き固めて築いた城壁をもつ集落が各地に現れ、集落のあいだの規模の差が大きくなる。器の質が変わることと、集落が守りを固めることが同じ時期に起きている。土器の名で「彩→黒」と並べて押さえたい。注意:「黒陶だけを用いた」とは書かない。灰色の土器も広く使われている。
3基本
前16世紀ごろ、黄河の中流域におこり、多くの集落を従えて成立した、考古学的に実在が確かめられている中国最古の王朝を何というか。
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解答:殷(商)
解説:この王朝はみずからを「商」と称したとみられ、「殷」は後の時代に用いられた呼び名である。王は各地の集落の長を従える盟主のような立場にあり、祭祀に用いる青銅の器が、その権威を目に見える形で支えていた。前11世紀に周に滅ぼされる。注意:「中国最古の王朝」とされるのは、考古学的に実在が確かめられている範囲での話である。文献には、これに先立つ王朝が伝えられている。なお、この王朝が青銅器の技術を独占していたとする見方には、地方でも独自の青銅器がつくられていたことが分かって修正が加えられている。
4基本
この王朝の王は、農耕や戦争などの重要事項を占って決め、その内容と結果を占いに用いた材料に刻ませた。漢字の最も古い形にあたるこの文字を何というか。
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解答:甲骨文字
解説:材料に使われたのは亀の腹甲と牛の肩甲骨で、名はそこに由来する。裏面に穴をうがって焼き、表にできた割れ目の形で吉凶を判断した。この文字は、のちの金文をへて現在の漢字へつながっていく。ものの形をかたどった象形の字が多く、二つ以上を組み合わせて意味を表す字も見られる。注意:学界に知られるようになったのは1899年とするのが通説だが、1898年とする資料もある。発見にまつわる逸話は後世の脚色を含むとみる研究者が多く、年と経緯を断定して覚えない。
5基本地図
図は中国の二つの大河を示す。Aは長江の下流域にあり、厚い稲
籾の堆積層と、偶蹄類の肩甲骨でつくった農具が出土した新石器時代の遺跡である。Bは黄河の北を流れる川の南岸にあり、この王朝の後期の王都があった場所として知られる。A・Bの遺跡名をそれぞれ答えよ。
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解答:A=河姆渡遺跡 B=殷墟
解説:Aの代表的な農具は骨耜と呼ばれる骨製の鋤で、木製の道具もあわせて出土する。Bからは大量の青銅器と占いの記録が出土し、それによって文献のうえだけの存在だった王朝の実在が確かめられた。Aは長江の本流沿いではなく、その南、杭州湾の南岸の低湿地にある。Bの位置は、黄河そのもののほとりではなく、その北を流れる洹水の南岸にあたる。注意:Bを「黄河のほとり」「黄河の南」と書かない。黄河の北にある。なお遺跡は川の両岸にまたがり、王宮・宗廟の区域が南岸、王陵の区域が北岸にある。
6発展
この王朝の時代の中国では、城壁で囲まれた集落が政治の単位となり、王都を中心に大小のそれらが結びついて国家をなしていた。この集落を何というか。
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解答:邑
解説:血縁を軸とする共同体が、そのまま政治の単位になっている。王都は「大邑商」などと記され、その下に有力なもの、さらにその下に小さなものが連なる序列があった。王は各地の長を従える立場にあり、領域を面としておさえていたのではない。都市国家の連合という形を思い浮かべるとよい。
7基本
『史記』などの文献に中国最初の王朝として記されながら、長く伝説上のものとみなされてきた王朝を何というか。
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解答:夏
解説:黄河中流域の二里頭遺跡では、宮殿とみられる大規模な建物の跡や青銅器が見つかっており、この王朝に対応する文化ではないかとする議論がある。年代も、文献が夏に当てる時期の後半とかさなる。ただし当時の文字資料が出ていないため、遺跡と王朝を結びつけることには慎重な見方も強い。注意:二里頭遺跡をこの王朝の都と断定しない。文字による裏づけがまだ得られていない。
8発展
この王朝では、王に代わって占いを実際に行い、その名が記録に残される職掌の者がいた。この担当者を何と呼ぶか。
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解答:貞人
解説:刻まれた文は、日付と占う人を記す前辞、占う内容を述べる命辞、判断を示す占辞、結果を記す験辞という順で構成されることがある。占いは国家の運営に関わる事がらに広く及び、同じ人物の名がくり返し現れる例もある。注意:「卜人」は『周礼』に見える官名で、甲骨学の用語ではない。また、四つの部分がすべてそろう例は多くない。
9基本
中国では、黄河の流域ではアワ・キビなどの雑穀を、長江の流域では稲を主に栽培する農耕が、早くから並行して発達した。この違いが生まれた理由を、両流域の自然環境にふれて簡潔に説明せよ。
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解答(例):黄河流域は降水量が比較的少なく、風に運ばれて積もった黄土におおわれていて、水をあまり必要としない畑作に適していた。これに対して長江流域は温暖で降水量が多く、川や湖沼にめぐまれていて、水をたたえた田をひらくのに適していたから。
解説:北の畑作と南の稲作という組み合わせは、その後の中国史を通じて食のあり方の基本になる。黄土は柔らかく、木や石の道具でも耕しやすい土でもあった。地形と気候が生業を分け、生業の違いが集落のあり方や社会の組み立て方の違いにつながっていく。
10発展
この王朝の王が、国家の重要事項を占いによって決め、その記録を残させていたことは、当時の王の権力がどのような性格のものであったことを示すか。祭祀と政治の関係にふれて簡潔に説明せよ。
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解答(例):王は神意を問う占いを掌握し、その結果を読み解くのも王であったと記されている。祖先や神をまつる宗教的な権威が、そのまま政治上の決定権を支えていたことになり、祭祀と政治が分かれていない性格の権力であったことを示す。
解説:占われたのは、収穫の見通し、戦いの可否、祭りの日どりなど、国の運営に関わる事がらである。神に問うという形をとりながら、その答えを読むのは王の側にあった。次の王朝は、天の意志という別の形で支配の根拠を立てることになり、根拠の置き場所が動いていく。
日本史(11問)
単元:古墳とヤマト政権(ヤマト政権の支配のしくみ)
11基本
ヤマト政権は、豪族を血縁を中心とする政治的な集団に編成し、その集団ごとに政権内での地位や職掌に応じた称号を与えて組織した。この支配のしくみを何というか。
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解答:氏姓制度
解説:豪族の集団は、蘇我・大伴のように本拠の地名や受けもつ職掌にちなむ名を負い、その代表者が政権に仕えた。称号は個人にではなく集団に与えられ、代々受け継がれていく。政権が家臣を一から任命したのではなく、すでにある集団を序列づけて取りこんだ点が要点になる。
12基本
前問のしくみで、葛城・平群・蘇我など本拠の地名を名とする有力豪族に与えられた称号と、大伴・物部など特定の職掌で王権に仕えた豪族に与えられた称号を、順に答えよ。
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解答:(順に)臣・連
解説:前者は大王家と並ぶ古い家柄の豪族に、後者は軍事や祭祀といった職務を代々受けもつ豪族に与えられた。この二つのほかに、君・直・造・首などの称号があり、地方の豪族には君・直が多い。中央の有力豪族の二つを軸にして、その周りに地方の称号を並べて覚えるとよい。
13基本
前問の二つの称号をもつ豪族のうち、それぞれ最も有力な者が任じられ、政権の中枢で国政にあたった地位を、同じ順に答えよ。
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解答:(順に)大臣・大連
解説:6世紀には蘇我氏が前者を、物部氏が後者を出し、両者が仏教を受け入れるかどうかをめぐって対立したと伝えられる。どちらも大王のもとで国政の中枢を担う地位で、その下には職掌ごとに集団を率いる豪族が置かれていた。587年に物部氏が滅ぼされたのちは後者が置かれなくなり、蘇我氏の出した前者が政権の実権を握っていく。
14基本
ヤマト政権のもとで、韓鍛冶部・錦織部・玉作部などの技術者や職能民の集団(品部)を率い、特定の職務をもって政権に仕えた豪族を何というか。
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解答:伴造
解説:政権の仕事は、こうした職務ごとの集団を率いる豪族に分担されていた。率いられる集団のほうが品部で、率いる側がこの語にあたる。文筆や財の管理には渡来系の氏族がこの立場であたっており、両者を潰して「集団そのものが担った」と書かないよう気をつけたい。
15基本
ヤマト政権が、服属した地方の豪族を任命して、その地域の支配にあたらせた地方官を何というか。
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解答:国造
解説:任じられた豪族は、それまでの支配権をおおむね認められたうえで、政権に対して一族の子女や労働力を差し出す義務を負った。のちの律令制で中央から派遣される国司とは成り立ちが違い、在地の支配者として郡司に任じられていくのは、この地位にあった豪族の系譜を引く層である。
16発展
大和・河内など政権の中心に近い地域に多く置かれ、前問の地方官が治めた範囲よりも狭い地域を治めたとされる地方の首長(の職)を何というか。
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解答:県主
解説:地方の広い範囲を有力豪族に任せるやり方と、小さな単位を政権が直接おさえるやり方とが、並んで用いられていたことになる。『古事記』『日本書紀』には、大和の磯城・十市などの県と、その長の名が見える。稲置という職も伝えられており、いずれも小さな単位を治めたとされる。注意:この職の実態や置かれた時期には不明な点が多く、史料も乏しい。国造の配下にあったとみる説と、政権の直轄領を管理する長であったとみる説とがあり、整った制度として理解しない。
17基本
ヤマト政権が各地に設けた直轄地と、豪族が私有した土地を、それぞれ順に答えよ。
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解答:(順に)屯倉・田荘
解説:前者は政権が直接に支配する土地で、その耕作には田部があたった。後者は豪族が自分のものとして持つ土地である。土地と人をそれぞれ政権側と豪族側に分けて、四つを対にして並べると整理しやすい。いずれも7世紀なかばの改革で廃止が打ち出される対象になる。
18基本
ヤマト政権の直轄民のうち、大王や王族、あるいは宮にちなむ呼称を負って各地に設定された集団を何というか。
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解答:名代・子代
解説:大王や后、皇子の名を後の世に伝えるために設けられたと説明されるが、実際には宮の経営や王族の養育を支えるために置かれたとみる説が有力である。屯倉を耕した田部とあわせて、政権側の人の押さえ方として整理しておきたい。
19基本
豪族が私有し、その支配のもとで農耕などに従事した民を何というか。
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解答:部曲
解説:豪族の氏の名や、豪族が支配する土地の名を負って呼ばれた。政権の直轄民に対して、こちらは豪族の側の私有民にあたる。646年の改新の詔で廃止が宣言されたが、実際に廃されたのは675年とされる。読みは「かきべ」で、同じ字を「ぶきょく」と読むのは、中国の別の身分を指す語である。
20基本史料
次は、6世紀前半に九州北部で反乱を起こした豪族について記した史書の一節である(訓読)。
陰に叛逆くことを謨りて、猶預して年を経。事の成り難きを恐りて、恒に間隙を伺ふ。
『日本書紀』継体天皇二十一年六月条
(1) この反乱を起こした豪族は誰か。(2) この反乱が起こったのは西暦何年か。
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解答:(1) 磐井 (2) 527年
解説:『日本書紀』はこの人物を「筑紫国造磐井」と記す。政権は加耶(加羅)の回復をめざして近江毛野臣に軍を率いさせようとしたが、新羅の働きかけを受けたこの人物にその進発を阻まれたと伝えられる。反乱は翌年、物部麁鹿火によって鎮められた。注意:『筑後国風土記』逸文はこの人物を「筑紫君磐井」と記す。どちらの史料によるかで肩書きの表記が変わるので、出典と表記を一致させること。
21発展
前問の反乱ののち、ヤマト政権は九州北部の支配をどのように強めたか。とられた方法と、それが地方支配にもたらした意味を簡潔に説明せよ。
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解答(例):反乱を起こした豪族の子が糟屋の地を献上したと伝えられ、これを機に政権は九州北部をはじめ各地に屯倉を置いていった。地方の豪族を任じて治めさせる間接的な結びつきだけでなく、政権が自ら支配する土地と人を地方にもつようになった点に意味がある。
解説:6世紀には、九州から関東にいたる各地に直轄の地が置かれたと『日本書紀』は記す。在地の豪族に任せるやり方と、政権が直接おさえるやり方とが並行して用いられるようになり、次の世紀の中央集権への足がかりになっていく。反乱の鎮圧は、その動きを進める契機になったとみられる。
今日の範囲
世界史|中国の古代文明(中国文明の発生と殷)
- 黄河中流域では前5000年紀ごろから彩陶を用いる仰韶文化が栄え、前3000年紀後半ごろからは中・下流域に黒色の土器を用いる竜山文化が広がった
- 長江下流域の河姆渡遺跡は、厚い稲籾の堆積層と骨製の農具を出し、南で早くから稲作が行われていたことを示す
- 前16世紀ごろ、黄河中流域に殷(商)がおこった。城壁で囲まれた邑が政治の単位で、王はその連合の盟主にあたる
- 殷墟から出土した甲骨文字は、王が占いによって国事を決めていたことを伝える。占いを行ったのは貞人と呼ばれる担当者である
- 文献が中国最初の王朝として伝える夏については、二里頭遺跡との関係が議論されているが、文字による裏づけはまだない
日本史|古墳とヤマト政権(ヤマト政権の支配のしくみ)
- ヤマト政権は豪族を氏に編成し、臣・連などの姓を与えて序列づけた(氏姓制度)。最有力の者が大臣・大連となった
- 品部を率いて職務にあたる豪族が伴造、地方の支配を任された豪族が国造で、より狭い地域には県主が置かれたとされる
- 土地は政権の直轄地である屯倉と、豪族が私有する田荘に分かれ、人も名代・子代と部曲に分かれた
- 527年、筑紫の豪族磐井が新羅と結んで反乱を起こし、翌年鎮圧された(『日本書紀』継体天皇二十一年条・二十二年条)
- 乱ののち九州北部をはじめ各地に屯倉が置かれ、政権が地方に直接おさえる土地と人をもつようになった
二つの範囲の隔たり:殷の後期の都が置かれてから、列島で筑紫の豪族が反乱を起こすまで、およそ千八百年。年表は同時代性ではなく、この隔たりを見るために並べている。
フィールドノート
マルセル・モース『贈与論』
マルセル・モース(一八七二〜一九五〇)は、フランスの社会学者・人類学者で、エミール・デュルケームの甥にあたる。一九二五年に『社会学年報』へ発表した論文「贈与論」で知られる。
この論文が扱ったのは、ポリネシア・メラネシア・北アメリカ北西海岸の民族誌と、ローマ法・ゲルマン法・古代インドの法制史料である。モースはそれらを突き合わせて、贈り物のやりとりが、気まぐれな好意ではなく義務の体系として動いていることを論じた。骨子は三つの義務——与える義務・受け取る義務・返す義務である。贈られたものを受け取らないことも、受け取って返さないことも、関係を損なう行いになる。
モースはまた、こうしたやりとりが経済・法・宗教・道徳を同時に巻きこむことに注意を促し、これを「全体的社会的事実」と呼んだ。品物だけでなく、儀礼・祝宴・女性・子ども・舞踊までが同じ体系のなかで動くという見方である。北アメリカ北西海岸のポトラッチは、その極端な形として引かれた。
今日の鍵語:マルセル・モース/「贈与論」(一九二五年)/与える・受け取る・返すの三つの義務/全体的社会的事実 *モース自身は現地調査を行っておらず、他の研究者の民族誌の読解にもとづく議論である。返礼を促す力をマオリの語「ハウ」に求めた解釈については、その後の人類学で長い論争がある。
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高校歴史探究・大学受験レベル|Day 010